「玲ー、琉々ー。良いものがあるから遊びに行こうぜー!」
 風が暖かく心地よい。太陽の光は日増しに輝いて人々の衣替えを誘う。そんな春の終わり。
 チャイムなど鳴らさずに、陸が円家の門前で叫んでいた。
「姉ちゃん、陸が来た!」
「……今本読んでいるから、また今度」
 宿題を終えて退屈だった玲は喜んで玄関扉を開けに行ったが、リビングの一番日当たりの良い場所で読書をしていた琉々が渋る。
「なんだ、玲だけか。琉々は?」
「本読むって言ってたけど……」
 玲は少し悩んだ後、
「姉ちゃーん! 陸がケーキおごってくれるって!」
「おごんねえよ!」
 家の中からばたばたと慌しい音がする。
「陸。私も行く」
 どうやらケーキで釣れたようだった。
 陸は財布の中身を確認して、溜息を吐いた。
「……一個だけな」
「わーい!」
「なぜ玲が喜ぶ!?」

  * * *



 大きな桜の木がある公園。
 陸と琉々と玲が幼い頃から親しんできた場所だ。
「これが良いもの?」
「ああ、そうだ」
「自転車だ! すげぇなぁ! 姉ちゃん知らねぇの?」
「……知ってるよ、それぐらい。見ればわかる」
 陸が二人に見せてやると言ったのは、自転車のことだった。
 大きさは二十二インチ。車体はつやつやの緑色で、茶色の前カゴには陸の通学鞄が入っている。
「ぴっかぴかだー! 良いなぁ」
「良いだろー」
「ここが回って動くのか?」
 玲が地面にしゃがんで、ペダルを手に持ってくるくると回すと、後輪もそれに合わせるように回る。
 おぉお! と興奮したように玲。と、琉々も後ろで一瞬たじろぎ。玲はまた面白そうに回した。
「あー……まあ、そうするんだけど。とりあえず、危ないから離れとけ。見本を見せてやる」
 陸が笑みを浮かべて、玲を下がらせる。
 そして、かしゃん、と音を立ててスタンドを蹴り上げた。
「ここに腰かけて。さっき玲が回していたこのところに足を乗せて、回す。と、動くんだ」
「へぇー!」
「玲、乗ってみるか?」
「うん!」
 陸に言われた通り、玲がサドルに腰をかける。
 自転車の後ろで陸に車体を支えてもらい、両手でしっかりとハンドルを握り、あとはこぐだけ。
 とここで、しばらくの間黙っていた琉々が口を開いた。
「……玲」
 琉々は静かに玲の足を指さす。
「ついてない、よね」
「……うん」
「危ないと思うんだけど」
「……う」
 玲の両足は、ぶらぶらと宙で持て余していた。陸が支えているからこそ、何もないように見えるけれども。
「……あははっ」
 琉々が笑いだしたのにつられるようにして、陸もお腹を抱えて笑いだした。
「陸が高くしすぎなんだろー」
「いや、オレなにもしてないって」
「玲は小さいからね」
「言うなぁー!」
 陸が、ちょっと待っとけよ、と言って、公園の出口の方に走っていく。やがて、姿が見えなくなった。
 残された玲と琉々は、首をきょとんと傾げる。
 しかしそのまま陸が帰ってこないので、単純な好奇心から二人は『サドルが高い』自転車に挑戦してみることにした。
「姉ちゃんも興味あんじゃん」
「……うるさい。別に、私は興味が無いなんて言ってない」
「怖がってたくせしてー」
「そんなことない。……あぁもう、玲は黙ってて」
 玲のからかいにちょっと押されつつも、琉々は先ほどの陸の真似をして自転車のサドルに腰をかける。
 両足のつま先が地面につくか、つかないかくらい。
 後はどうやって前に進むか――。
「陸は足をここに乗せて、回してたぞ」
「え? でも、そんなことしたら倒れる……」
「片足ずつ乗っければ大丈夫じゃねぇの?」
 玲に言われて、琉々が右足をペダルにかける。
 すると、今までバランスが保たれていた車体が斜めに傾いて、琉々の左足が完全に地に着く形になった。
「……どうやって、両足乗せるの?」
「傾くかぁ。……あ、じゃあ俺が支えてやるよ」
 大丈夫、と自分にも言い聞かせるようにして、玲は自転車の後ろに回り、がっしりと荷台を掴んだ。
「ほら、姉ちゃん、左足も」
「……本当に大丈夫なの?」
「わかんね」
「信用ならないんだけど」
 早く早く、と玲は、目をきらきらさせて。
 はぁ、と琉々は溜息をついて、左足を素早くペダルに乗せ、思いっきりこぎはじめた。
 その回転の力は、チェーンを伝って車輪が回り、地面との摩擦で、着実に前に進む。
    そして、その動きに感動して、玲は手を叩いた。
 手を叩くために、荷台から手を放した。
「あ」
 がっしゃーん。
 派手に音を鳴らして、バランスを失った自転車は琉々もろとも転倒した。
「姉ちゃん!」
「……っつ……っ」
 玲が叫んで、琉々に駆け寄る。
 こけ方が良かったのか悪かったのか、琉々は綺麗に、そのまま真横に倒れた。
 左足が自転車の下敷きになっている。
 少し離れたところに、琉々がいつも付けている髪飾りも落ちていた。
「姉ちゃん大丈夫? 痛い?」
「……玲……」
 玲が、琉々の体を力いっぱい自転車から引き離す。
 少しだけ琉々が眉間に皺を寄せたが、玲はおろおろとして、ただ琉々の名前を呼んだ。
「姉ちゃん、ごめん……ごめんなさい!」
「うん……」
 隣でかしゃん、と音がした。
 玲が顔をあげて音のしたほうを見ると、陸が倒れていた自転車を起こしている。
「……お前らなあ……」
 陸は苦笑を浮かべて、二人の隣にしゃがみこんだ。
「あっ、陸! 姉ちゃんが……っ」
「見てわかる」
 倒れている自転車、玲にもたれている琉々、そしてさっき公園に響いた大きな音。
 ここで何が起こったのか、その場にいなくともはっきりとわかる。
 呆れたような笑みも浮かべながら、陸は髪飾りを拾い、琉々の髪にさした。
「二人して、なにやってんだか」
「ごめん……」
「ごめんなさい……」
「責めてるんじゃなくって」
 責めてるんじゃないんだよ、と陸がもう一度言う。
「気をつけなきゃいけないこととか、何にも言わなかったオレもオレだし、ごめんな。……とりあえず、琉々、起きあがれそうか?」
 陸がさしだした左手を、琉々がとって立ち上がる。
「どらおじさんに、この座るところの高さの調節のしかたを訊きに行ってたんだ」
「そっかぁ……」
「で、オレがいない間に自転車に乗って、琉々がこけた、と。痛くないか?」
「……痛くない」
「嘘だ。絶対痛い、それ」
 琉々の赤くなった左頬、左腕、左足。
 見ていて痛々しい。
 陸が、家に行こう、と言った。

  * * *



 どらおじさんに消毒してもらって、少し怒られた。三人とも。
 琉々は左足の首のところを、を少し挫いていたらしい。
「ほら、何が痛くないだよ。やっぱり痛いんじゃないか」
「挫いただけ。全然平気」
 それを痛いんだろうと陸は言っているのだが。
「なぁなぁ、どらおじさんは自転車乗れんのか?」
「乗れないから、陸にあげたんだよ」
「……オレも玲ぐらいの頃は乗れなかったんだけどな」
「そうだな、玲君。これからも自転車に乗ろうと思うんだったら、何回でもこけて、練習することだ」
 どらおじさんの言葉を受けて、玲が元気いっぱいに、はい! と返事をする。
「陸ー、早く練習しようぜー」
「ああ、はいはい。琉々は――……」
 ソファの上で黙っている琉々を見て、陸は言葉を詰まらせた。
 少し拗ねているようにも見える横顔は、左頬の絆創膏が似合わない。
 でも一人ここに置いていくわけにも、と思って、琉々を無理矢理連れだした。
「ほんっと、姉ちゃんって意地っ張りだよなー!」
「だな。……琉々、まだ痛むか?」
「……痛くないって最初から言ってる」
「そっか」
「……本当に痛くないんだからね」
「はいはい」
 オレはケーキをいくつ買わなきゃいけないんだろう。
 なんて陸が脳内で自分のおこづかいと計算している間に、玲はとっくに公園まで走って行って、自転車に乗るというロマンにとりつかれたようにはしゃぎまくっている。
「陸、これ下げてくれよ。さっきおじさんに訊いたんだろ?」
「サドルか? 別に下げなくっても……」
「足が着かないんですー。悪かったな!」
「冗談。悪くないよ。下げてやる」

  * * *




 ようやく玲が感覚をつかめてきた頃には、日は大分と西に傾きはじめていた。
 その間琉々はずっとベンチに腰掛けていて、二人の様子を眺めて、時々口を挟んで。
「よっしゃ、いけたー!」
「おう、もうすぐ一人でも乗れるようになるな」
「良かったね、玲。でも、サドルを上げたら乗れないんじゃない?」
「あー、もう! それには触れんなぁ!」
「そろそろ晩飯の時間だし、帰るとしよう。今日は楽しかったか?」
「うん!」
 玲はとても嬉しそうに。
 琉々は満更でもなさそうに。

  * * *



 自転車と陸にさよならを告げて、玲と琉々は家に帰る。
 夕食の席で、玲と琉々の体中にできたすり傷を家族が疑ったが、何となく今はまだ秘密にしておきたくて、理由は内緒にした。
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