春田京子は美人である。
 瑞々しい桃色の唇。長い睫毛で綺麗に縁取られている大きな瞳。日に焼けていない白い肌。乙女のごとく亜麻色をした長い髪の先は少しウェーブを描いている。
 『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』とは、昔の人はよく言ったものだと彼女を知っている者はそう語るだろう。
 そんな彼女は今、恋をしていた。

  * * *

 放課後、遅くまで学校に残って勉強していた京子は、弓道部である友人の優美と一緒に帰ろうと思い、弓道場まで行った。
「あーっ! 京子じゃん」
「優美、そろそろクラブ終わり?」
「うん、終わりだけどねー、ちょっとこっち来てよ」
 優美は「新しく一年生が入ってきたの」と、道場の隅のほうでかたまっていた二人の男子を指差した。
「あっちの……金髪のほうじゃなくって、黒髪のちょっと可愛い感じのほうね」
 弓道部は部員が少なく、だからこそか、優美は新しく入ってきた後輩が嬉しくてたまらないといった表情だった。
「光村有斗って名前。金髪の子は時岡陸だったかなー……」
「……ふぅん、そうなの」
「友達同士みたいなんだけどねー。なんか金髪のほうは入ってくれないみたいで、残念」
 有斗は練習で使い終わった弓を一生懸命に磨いているようだった。
 時々陸がからかって、有斗が手をしっしと掃うそぶりをしているが、二人とも楽しそうに笑っている。
 有斗の黒い髪がさっと風に誘われ、夕陽をきらきらと反射した。
 屈託の無い、本当に純粋な。
「京子ー、帰るんでしょ。……あれ、聞こえてる? 京子?」
 京子はそんな有斗のことを、じっと見ていた。
 一目惚れ、だったのだ。

  * * *

 真上から照りつける太陽が暑い。
 講習を午前で引き上げて、京子は一人バス停で立っていた。
 腕時計と時刻表を照らし合わせてみる。次のバスが来るまであともう少しあった。
「あっつー」
「うん、暑いな」
 ふとそんな声が聞こえて、京子はいつの間にかうつむいていた顔をあげる。
 来た道――学校の方から有斗と陸がこちらに歩いてきていた。
 彼らは京子の方は見ないで、ただ楽しそうに二人だけで喋っている。
「有斗、アイスいるか?」
「いるー」
「あ」
「何、どうした?」
「……溶けてた」
「ですよね! オレら何時間講習受けていたと思う?」
「はい、三時間です!」
 思わず聞き耳をたてていた京子はそこで少し笑ってしまって。
 でも声は二人に聞こえないように。ひっそりと、一人で。
「あ、あっちに自販機が……!」
「勿論陸のおごり!」
「欲しけりゃ自分も買え」
 陸は自動販売機を見つけたようだ。
 バス停よりも少し離れたところまで走っていって、そこにある自動販売機で何かを買った。
 ゴトン、と一本だけ缶が落ちる音がする。
 戻ってきた陸の手には、サイダーが握られていた。
「はいどうぞ、有斗」
「え、いや、いいって。それ陸のサイダーだし」
「なんだ、お前いらないのか?」
 先ほどの有斗の言葉は冗談だったとわかったところで、陸はサイダーの缶の口を有斗のほうに向け、素早くプルを開けた。
 ぷしゅ! しゅわしゅわしゅわ…と中身が勢いよく溢れだす。
「……お約束」
「そんなお約束いらないよ!」
 さっき陸はこの缶を持って走っていた。
 当然の結果ともいえるが、――確かにお約束。
「ちょ、タオルタオルー」
「持ってないよ! ああもう、陸のせいでオレまで水びたし……」
「あ、あった、ティッシュだけだけど」
「足りないね、そんなもんじゃ」
 頭から被ってしまったのだろう、有斗の黒い髪が濡れている。
 陸の右手には、まだ泡をぶつぶつ言わせているサイダーの缶が。
「……あの……これ、どうぞ使ってください」
 京子はポケットからハンカチを取り出し、有斗に差し出した。
 有斗はそれを反射的に受け取る。
「あ、すいません」
「いえいえ」
 使っていいのかな、と有斗の呟く声に、いいだろ、と言う陸の声は、やってきたバスのエンジンの音にかき消された。
 有斗が京子に、洗濯してから返していいですか、と声をかけた。
 京子は、もちろん構いません、と返事をしてから、バスを降りた。
 その日の帰り道は、足取りがなんだか軽やかだった。
 夏の太陽が、輝いている。

  * * *

「京子、光村君が呼んでるよー」
「……えっ?」
 そろそろ帰ろうかと京子が教室で勉強道具をまとめていた時、不意に入り口から優美が現れた。
 優美の後ろには、確かに彼女の言う通り、有斗の姿が見える。
「じゃ、あたしはクラブのほう戻るしー、じゃあね!」
「あ、優美……。……行っちゃった……」
 勿論、京子に心当たりはあった。
 内容はわかっている。先日のハンカチを返しに来たのだろう。
 京子は来てくれた事実に喜びを感じていたが、少し、寂しさや焦りのようなものも感じていた。
 多分会話できるチャンスだなんて、これで最後なのだ。
 京子は教室の外に踏み出した。
「こんにちは」
「あ、どうも……」
 日に焼けたのだろうか、有斗の顔が以前見たときより赤い。
 そしてその手には、やはり件のハンカチが握られていた。
「これ、ありがとうございました」
 京子が有斗から受け取ったハンカチには、律儀なことにアイロンまでかけてあった。少しあたたかい。
「あら、丁寧ね」
「……すみません」
 用件が終わったとみて、京子は有斗のほうから去ってしまうのを待っていた。
 しかし、有斗のほうも同じことを考えていたのか、二人はそのまま廊下で直立する。
「…………」
「…………」
「……あ」
「……?」
 先に口を開いたのは有斗だった。
 何かと思って、京子は言葉の続きを待つ。
「……あの、前から言おうと思ってはいたんですけど……。オレ、先輩のこと……好きなんですよ」
 例えを用いるまでもなく、その時の有斗の顔は耳まで紅く。
 と共に京子の顔も紅くなっていった。
「あっ、すみません!」
「……え? いえいえ、そんなことないです! ごめんなさい」
 なぜかお互い謝ってしまう。
 先ほどとは違う焦りが京子の胸を渦巻いていた。
 京子は、今有斗が言った言葉は果たして真実なのか、これは夢ではないのか、と自問自答する。
 が、左手で思いっきり太腿の裏をつねってみても、ただの痛みしか感じなかった。
「……入学した最初の頃、友達が、上の学年に美人がいるから見に行こうって言うから、ついて行ったことがあるんです」
「……はい」
 夢心地のような中で、恐らくその友達とは陸のことなんだろうな、と京子は薄らぼんやりと考えた。
「そこで見たのが、先輩でした」
「……はい……」
「噂どおりの美人で……一目惚れ、したんです」
 もう一回つねってみても、やはり痛みしか感じなかった。
「ホント、ごめんなさい。オレ、ストーカーみたいだし……あっ、別に先輩の家を知ってるとか、そんなんじゃなくて、その……」
 有斗は一旦そこで息をつぎ、また、言葉を繋げていく。
「……この前のバス停、とか、ずっと先輩のこと見てたりとか。……一度、弓道部に来てたことありましたよね。あの時オレ、すごく嬉しかったんですよ」
「あ……そう、です。……私も」
「……先輩?」
 京子は自分が泣いているような気がした。
 多分錯覚だろうが、まぶたが熱い。それから、特に頬が。
「……私もその時、あなたを見て……一目惚れしたんですよ」
「えっ?」
 また、つい数分前のハンカチの受け渡しが終わったあとのような微妙な空気が、二人しかいない廊下を漂う。
 しかし、今度は、京子から口を開いた。
「……私たち、お互いに一目惚れで……両思いだったんですね」
「……みたいです。……あの、先輩」
「はい、何でしょう」
「オレとつきあってくだし、あ、噛んだ、つきあってください」
「ふふっ。……勿論良いですよ」
 幸せだった。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。