僕は鼻歌を歌いながら歩いていた。歌詞は知らないから、メロディーだけ。
行き先は公園。昨日、そこにいた陸という高校生に、この曲を教えてもらった。
――林檎の歌、というらしい。
「よお、はちみつ」
「こんにちは」
僕が公園に着くと、陸はすでにベンチに腰掛けていた。お気に入りのものだというエレクトリックギターを膝の上に乗せて。
蜂蜜が好きな僕はそのまま『はちみつ』というあだ名で呼ばれている。気がついたら、クラスでそう呼ばれていたのだ。多分、適当に誰かがつけたのだろう。
そんなに嫌ではなかったので、自らそう名乗ることもある。
陸の少し長い金髪が夕陽を浴びて、黄色く透ける。その様子はまるで蜂蜜のようなので、僕は陸のことが大好きだ。
きっと今日も、林檎の歌を演奏してくれる。
先月、この町に引っ越してきた僕は、当然転校生としてクラスに迎え入れられた。
大きな蝶の髪飾りを頭に付けていたせいなのか、「女の子みたいだ」と、誰かに言われた。髪の毛が肩に触れるまで長いせいもあるかもしれない。
毎日髪飾りを付けていくと、それは次第にからかいの種となり、影で囁き続けられた。変わってるとか、女装癖とか、変態とか。
でも僕は気にしていない。
お気に入りのものだったし、それに「可愛いね」と言ってくれたクラスメートだって、たった一人だけど居るのだ。
顔と名前が一人も一致しないクラスメートの中で、その子だけ覚えた。
僕と同じようにいつも髪飾りを付けている女の子、琉々。
次の日もその次の日も、放課後になればすぐ、陸に会うため公園に行く。もう僕の日課となっていた。
「はちみつは林檎の歌が好きなのか?」
「うん」
陸にそう訊かれ、僕は即答した。その日はそれだけ。
学校で、琉々はよく僕に話しかけてくれる。
そういうことをしてくれるのは琉々だけだ。他の子は、みんな僕を気味悪がっていて、言葉を交わすこともない。
仮にクラスの全員が僕のことを気味悪いと思っていたとしたら、それはそれで逆にこっちが気味悪いと思うけど――なんだか意思が揃っていると、ロボットみたいじゃないか。
それを琉々に話したら、彼女は、あははと笑った。
「みんなも、はちみつとお喋りしたらいいのに。……ね?」
彼女はそう言うけれど、僕は別にどっちでもいい。
琉々がいるから、退屈もしないし、元々一人は苦じゃない。
「はちみつも自分から話しかけてみたら?」
「無視されるに決まってる。だから、僕は一人でいいんだ」
「あ……私は、一人は寂しいかなぁ……」
「そうだと思った。琉々は大体誰かといるから。友達多そう」
琉々は照れくさそうに笑った。はにかんでいる様子がとても可愛い。
少ししてチャイムが鳴り、琉々が席へと戻る。僕はバイバイと軽く手を振って、教科書とノートを出した。
土曜日。授業はお休みなので、朝から公園に行くことにした。
「……あ。おはよう、はちみつ」
「陸……おはようございます」
まさか陸がいるなんて予想していなかった。
休日だから、さすがにいないかなとは思っていたものの、いるとやはり嬉しい。
「はちみつ、お前なんでここに来たんだ? 休みの日の朝なのに」
「……陸に会いたくて……なんて言ったら退く?」
「じゃあオレも、はちみつに会いたかったということにしよう」
「……本当に会いたかったんだよ、陸……!」
「はいはい、そんなに言うならこっちにおいで。抱きしめてあげるから」
そう言うと僕らはくくく、ははと笑い始めた。僕の悪ノリに付き合ってくれた陸に感謝だ。
そして陸はギターで林檎の歌を弾き始めた。
まだ朝で車の通りが少ないせいか、妙にいつもと違って聴こえる。
「ねぇ、陸」
「なんだ?」
「この曲の、歌詞って無いの?」
「あー……今はない、かな」
「そうなんだ」
今は、ということは、もしかして作詞の真っ最中だったりするのかもしれない。
林檎の歌の歌詞は、どんなものなんだろう。
あのメロディーには、どんな言葉が乗せられるのだろう。
僕はそれが気になって、夜も眠れない。
休み明けに学校で、琉々に陸のこと――そして林檎の歌のことを話した。そうしたらなんと、彼女は陸と幼なじみだと言い、歌のことも知っていた。
「びっくりした。はちみつと陸が知り合いだったなんて」
「僕も驚いたよ」
「ねぇ、はちみつは林檎って好き? 私も陸も、大好物なの」
琉々は心底嬉しそうに、そう話した。
今日は掃除当番だったので、早く終わらせてから公園へ行こう、と思っていたら、雨が降りだしてきた。
掃除を終え、下足室へと向かう。鞄の中を見ると、折りたたみ傘がちゃんとあった。ぬかりのない僕、だなんて自画自賛する。
雨は止む気配もないので、僕は仕方なく真っ直ぐ帰宅することにした。こんな天気だ。陸が公園にいるはずがなかった。
宿題を終えた後の平日の夕方がこんなに暇なんて、久しぶりに思い出した。
その日の晩に、僕は久しぶりに夢というものを見た。
陸が公園で林檎の歌を歌っていた。
だけど、僕が思っていたような歌詞とは少し違う。
それは歌詞と言うよりも、恋文に書いてあるようなポエムに近い印象を受けた。ただひたすらに、がむしゃらに愛を綴る歌だった。
――ただ、林檎だけ、林檎だけがあればいいんだ
――ねぇ、林檎、愛してる、愛してる、愛してる
――だから、僕を、愛して、愛して、愛して、ね
何度も残響する。そこが空間なのか僕の頭の中なのか区別がつかないぐらい、乱反射して。
そして僕はその歌の意味に気付いた。
「陸……!」
夢の中で僕が一度だけ発した言葉は、陸に届いたらしい。
彼はこちらに気がついて、そして、あははと笑ったように聞こえた。
覚えている内容は、それだけだ。
翌日から僕は陸に会うのが怖くなった。
林檎の歌の歌詞は、絶対に僕が夢で聴いたものとは違うはずだ。僕は林檎の歌の本当の歌詞など知らない。だからあれはただの妄想に違いない。
それなのに、なぜかその歌詞が陸の本心のような気がして、怖いと思ってしまう。
夢のせいだ、と言い聞かせても無駄だった。
公園に行かない日が続いた。
雨の日が続いている、というのもある。
どのみち雨が降っていれば、陸は公園にいないのだから。
「はちみつ? 何だか元気ないよ、大丈夫?」
「……大丈夫」
終礼が終わってもまだ帰らない僕に、琉々が心配そうな表情でこちらにやってきた。
折角琉々に声をかけてもらったのに、嘘を吐いてしまった。
嘘はやっぱりいけない、と思い、慌てて訂正する。
「ごめん。少し、疲れてるんだ」
「そう。……じゃあ、一人でいたほうが、もしかするとはちみつにとっては楽かもしれないよね」
そう言って、琉々は僕のもとから立ち去ろうとした。
琉々が行ってしまう。
放課後だからみんな家に帰るのは当たり前のことなんだけど、でもそんな気がした。
僕は咄嗟に琉々の腕を掴む。
「待って!」
琉々は驚いた表情こそしているものの、僕の手を振り払おうとはしなかった。
「琉々。聞きたいことが、あるんだ」
「うん、いいよ」
肯定の返事。
どくん、と心臓が鳴る。
「……琉々は、僕といて楽しい? 君には友達がいっぱいいて、誰にでも優しいけど、最近はずっと僕と一緒にいてくれているよね。……僕のことで、みんなに避けられたりとかしてない?」
琉々が笑う。これは僕を安心させようとする笑顔に違いない。
「……私は、はちみつといると楽しいよ。みんなに避けられたりもしてないよ。大丈夫。はちみつが悪いことなんてないから」
騙されまいと思っていた笑顔だったのに、この言葉。反則だ。
僕は、彼女には何一つ勝てるとことがないんだ。
ざあざあという雨の音と、どくどくという血の音がやたらと耳に響く。
思わず、次の琉々の言葉を聞き逃すところだった。
「ねぇ。他に聞きたいこととかあったら言って?」
他に聞きたいこと。まるで僕の話を聞くだけ聞いて早く帰りたいと暗に言われているようだった。
僕はこのまま琉々を逃がしたくなくて、咄嗟に口走る。
「あ、えっと。陸は元気かな」
「元気だと思うよ。最近会ってないからわかんないけどね」
どうでもいいような、でもどうでもよくない、そんな質問を続けた。
「最近って、いつから?」
「はちみつが転校してきた頃ぐらいかな」
「……林檎の歌は、好き?」
「好き。……ってこの前も言わなかったっけ」
「じゃあ、あの曲の歌詞って知ってる?」
「うん」
歌詞を知ってる。琉々は、林檎の歌の歌詞を知っていた。
あの夢の中で、僕は、陸が琉々のことを好きなんだと思いこんだ。
それとほぼ同時に、僕が琉々のことを好きなことにも気がついた。
嫉妬ってやつはどう説明したらいいのかわからないし、国語辞典を見れば載っているのだから説明のしようすらないけれど、僕は陸にシットしている。
琉々が陸のことを話すときは、幸せそうな顔をするから。
そして確かに陸は琉々が好きで、大好きで、愛してるんだ、と、そう思った。
多分、あの歌詞がその象徴。
僕はあそこまで人を好きになったことがない。今まで一人だったから。
今までは人ごみと自分から逃げてきた。今度は陸から逃げた。 そして林檎の歌からも逃げた。
でも琉々からは逃げられなかった。
おかしな表現かな?
だって今僕は琉々の腕を掴んでいるのに、逃げられない、だなんて。
「はちみつ? 本当に顔色悪くなってきてない?」
「……陸は……琉々のことが、好きなんだよ」
あ、と思った時には遅かった。つい余計なことまで口走ってしまった。
何の根拠もない、自分の思い込みだけで、こんなことを言うべきではないはずなのに。
「え?」
「……っ。林檎の歌の歌詞だよ! あれは、陸が……、琉々、君への想いを綴った歌なんだ……!」
「ごめん、はちみつ? 何を言ってるのかよくわからない……」
そう言いながらも、琉々の顔は少し紅くなっていた。
やっぱり、琉々と陸は――。
「何を言ってるのか、って……。陸は変だよ。愛情が狂ってる。琉々だけがいればいい、って思ってるんだ……」
「私だけが?」
「……聞いて、琉々。僕は君が好きだ」
もう僕にはほとんど何も音が聞こえなくなっていた。雨の音も、さっきからうるさく動いていた心臓の音も、記憶の中で陸が奏でているギターの音色も。
ただ琉々だけの声が聞こえるような状況だ。
必死に、琉々の声に縋るように。
「だからっ、……林檎が好きだなんて言わないで……!」
「あ、あのね。大丈夫だから……落ち着いて、はちみつ!」
まるで幼い子をあやすかのように、琉々の手が僕の手に重なる。
「林檎の歌は、私が作詞したの」
そのあと琉々は、透き通ったガラスのような歌声で、林檎の歌を歌ってくれた。
――たとえば 僕は林檎が好きなのだけど
――あるとき そこに林檎はなくって
――もう既に 食べられていたとしたらどうしよう?
――蛇は教えた
――〝その実をお食べ 神の力を得られるよ〟 と
――僕は要らない そんなものは要らない
――ただ 林檎だけがあってくれたらいい
――ねぇ 林檎 笑って 笑って 笑って
――僕に笑って 笑って 笑って 笑って
「……ね? だから大丈夫、はちみつ……」
歌い終えた琉々は、言葉が出ない僕を安心させるために、またあははと笑った。
行き先は公園。昨日、そこにいた陸という高校生に、この曲を教えてもらった。
――林檎の歌、というらしい。
「よお、はちみつ」
「こんにちは」
僕が公園に着くと、陸はすでにベンチに腰掛けていた。お気に入りのものだというエレクトリックギターを膝の上に乗せて。
蜂蜜が好きな僕はそのまま『はちみつ』というあだ名で呼ばれている。気がついたら、クラスでそう呼ばれていたのだ。多分、適当に誰かがつけたのだろう。
そんなに嫌ではなかったので、自らそう名乗ることもある。
陸の少し長い金髪が夕陽を浴びて、黄色く透ける。その様子はまるで蜂蜜のようなので、僕は陸のことが大好きだ。
きっと今日も、林檎の歌を演奏してくれる。
先月、この町に引っ越してきた僕は、当然転校生としてクラスに迎え入れられた。
大きな蝶の髪飾りを頭に付けていたせいなのか、「女の子みたいだ」と、誰かに言われた。髪の毛が肩に触れるまで長いせいもあるかもしれない。
毎日髪飾りを付けていくと、それは次第にからかいの種となり、影で囁き続けられた。変わってるとか、女装癖とか、変態とか。
でも僕は気にしていない。
お気に入りのものだったし、それに「可愛いね」と言ってくれたクラスメートだって、たった一人だけど居るのだ。
顔と名前が一人も一致しないクラスメートの中で、その子だけ覚えた。
僕と同じようにいつも髪飾りを付けている女の子、琉々。
次の日もその次の日も、放課後になればすぐ、陸に会うため公園に行く。もう僕の日課となっていた。
「はちみつは林檎の歌が好きなのか?」
「うん」
陸にそう訊かれ、僕は即答した。その日はそれだけ。
学校で、琉々はよく僕に話しかけてくれる。
そういうことをしてくれるのは琉々だけだ。他の子は、みんな僕を気味悪がっていて、言葉を交わすこともない。
仮にクラスの全員が僕のことを気味悪いと思っていたとしたら、それはそれで逆にこっちが気味悪いと思うけど――なんだか意思が揃っていると、ロボットみたいじゃないか。
それを琉々に話したら、彼女は、あははと笑った。
「みんなも、はちみつとお喋りしたらいいのに。……ね?」
彼女はそう言うけれど、僕は別にどっちでもいい。
琉々がいるから、退屈もしないし、元々一人は苦じゃない。
「はちみつも自分から話しかけてみたら?」
「無視されるに決まってる。だから、僕は一人でいいんだ」
「あ……私は、一人は寂しいかなぁ……」
「そうだと思った。琉々は大体誰かといるから。友達多そう」
琉々は照れくさそうに笑った。はにかんでいる様子がとても可愛い。
少ししてチャイムが鳴り、琉々が席へと戻る。僕はバイバイと軽く手を振って、教科書とノートを出した。
土曜日。授業はお休みなので、朝から公園に行くことにした。
「……あ。おはよう、はちみつ」
「陸……おはようございます」
まさか陸がいるなんて予想していなかった。
休日だから、さすがにいないかなとは思っていたものの、いるとやはり嬉しい。
「はちみつ、お前なんでここに来たんだ? 休みの日の朝なのに」
「……陸に会いたくて……なんて言ったら退く?」
「じゃあオレも、はちみつに会いたかったということにしよう」
「……本当に会いたかったんだよ、陸……!」
「はいはい、そんなに言うならこっちにおいで。抱きしめてあげるから」
そう言うと僕らはくくく、ははと笑い始めた。僕の悪ノリに付き合ってくれた陸に感謝だ。
そして陸はギターで林檎の歌を弾き始めた。
まだ朝で車の通りが少ないせいか、妙にいつもと違って聴こえる。
「ねぇ、陸」
「なんだ?」
「この曲の、歌詞って無いの?」
「あー……今はない、かな」
「そうなんだ」
今は、ということは、もしかして作詞の真っ最中だったりするのかもしれない。
林檎の歌の歌詞は、どんなものなんだろう。
あのメロディーには、どんな言葉が乗せられるのだろう。
僕はそれが気になって、夜も眠れない。
休み明けに学校で、琉々に陸のこと――そして林檎の歌のことを話した。そうしたらなんと、彼女は陸と幼なじみだと言い、歌のことも知っていた。
「びっくりした。はちみつと陸が知り合いだったなんて」
「僕も驚いたよ」
「ねぇ、はちみつは林檎って好き? 私も陸も、大好物なの」
琉々は心底嬉しそうに、そう話した。
今日は掃除当番だったので、早く終わらせてから公園へ行こう、と思っていたら、雨が降りだしてきた。
掃除を終え、下足室へと向かう。鞄の中を見ると、折りたたみ傘がちゃんとあった。ぬかりのない僕、だなんて自画自賛する。
雨は止む気配もないので、僕は仕方なく真っ直ぐ帰宅することにした。こんな天気だ。陸が公園にいるはずがなかった。
宿題を終えた後の平日の夕方がこんなに暇なんて、久しぶりに思い出した。
その日の晩に、僕は久しぶりに夢というものを見た。
陸が公園で林檎の歌を歌っていた。
だけど、僕が思っていたような歌詞とは少し違う。
それは歌詞と言うよりも、恋文に書いてあるようなポエムに近い印象を受けた。ただひたすらに、がむしゃらに愛を綴る歌だった。
――ただ、林檎だけ、林檎だけがあればいいんだ
――ねぇ、林檎、愛してる、愛してる、愛してる
――だから、僕を、愛して、愛して、愛して、ね
何度も残響する。そこが空間なのか僕の頭の中なのか区別がつかないぐらい、乱反射して。
そして僕はその歌の意味に気付いた。
「陸……!」
夢の中で僕が一度だけ発した言葉は、陸に届いたらしい。
彼はこちらに気がついて、そして、あははと笑ったように聞こえた。
覚えている内容は、それだけだ。
翌日から僕は陸に会うのが怖くなった。
林檎の歌の歌詞は、絶対に僕が夢で聴いたものとは違うはずだ。僕は林檎の歌の本当の歌詞など知らない。だからあれはただの妄想に違いない。
それなのに、なぜかその歌詞が陸の本心のような気がして、怖いと思ってしまう。
夢のせいだ、と言い聞かせても無駄だった。
公園に行かない日が続いた。
雨の日が続いている、というのもある。
どのみち雨が降っていれば、陸は公園にいないのだから。
「はちみつ? 何だか元気ないよ、大丈夫?」
「……大丈夫」
終礼が終わってもまだ帰らない僕に、琉々が心配そうな表情でこちらにやってきた。
折角琉々に声をかけてもらったのに、嘘を吐いてしまった。
嘘はやっぱりいけない、と思い、慌てて訂正する。
「ごめん。少し、疲れてるんだ」
「そう。……じゃあ、一人でいたほうが、もしかするとはちみつにとっては楽かもしれないよね」
そう言って、琉々は僕のもとから立ち去ろうとした。
琉々が行ってしまう。
放課後だからみんな家に帰るのは当たり前のことなんだけど、でもそんな気がした。
僕は咄嗟に琉々の腕を掴む。
「待って!」
琉々は驚いた表情こそしているものの、僕の手を振り払おうとはしなかった。
「琉々。聞きたいことが、あるんだ」
「うん、いいよ」
肯定の返事。
どくん、と心臓が鳴る。
「……琉々は、僕といて楽しい? 君には友達がいっぱいいて、誰にでも優しいけど、最近はずっと僕と一緒にいてくれているよね。……僕のことで、みんなに避けられたりとかしてない?」
琉々が笑う。これは僕を安心させようとする笑顔に違いない。
「……私は、はちみつといると楽しいよ。みんなに避けられたりもしてないよ。大丈夫。はちみつが悪いことなんてないから」
騙されまいと思っていた笑顔だったのに、この言葉。反則だ。
僕は、彼女には何一つ勝てるとことがないんだ。
ざあざあという雨の音と、どくどくという血の音がやたらと耳に響く。
思わず、次の琉々の言葉を聞き逃すところだった。
「ねぇ。他に聞きたいこととかあったら言って?」
他に聞きたいこと。まるで僕の話を聞くだけ聞いて早く帰りたいと暗に言われているようだった。
僕はこのまま琉々を逃がしたくなくて、咄嗟に口走る。
「あ、えっと。陸は元気かな」
「元気だと思うよ。最近会ってないからわかんないけどね」
どうでもいいような、でもどうでもよくない、そんな質問を続けた。
「最近って、いつから?」
「はちみつが転校してきた頃ぐらいかな」
「……林檎の歌は、好き?」
「好き。……ってこの前も言わなかったっけ」
「じゃあ、あの曲の歌詞って知ってる?」
「うん」
歌詞を知ってる。琉々は、林檎の歌の歌詞を知っていた。
あの夢の中で、僕は、陸が琉々のことを好きなんだと思いこんだ。
それとほぼ同時に、僕が琉々のことを好きなことにも気がついた。
嫉妬ってやつはどう説明したらいいのかわからないし、国語辞典を見れば載っているのだから説明のしようすらないけれど、僕は陸にシットしている。
琉々が陸のことを話すときは、幸せそうな顔をするから。
そして確かに陸は琉々が好きで、大好きで、愛してるんだ、と、そう思った。
多分、あの歌詞がその象徴。
僕はあそこまで人を好きになったことがない。今まで一人だったから。
今までは人ごみと自分から逃げてきた。今度は陸から逃げた。 そして林檎の歌からも逃げた。
でも琉々からは逃げられなかった。
おかしな表現かな?
だって今僕は琉々の腕を掴んでいるのに、逃げられない、だなんて。
「はちみつ? 本当に顔色悪くなってきてない?」
「……陸は……琉々のことが、好きなんだよ」
あ、と思った時には遅かった。つい余計なことまで口走ってしまった。
何の根拠もない、自分の思い込みだけで、こんなことを言うべきではないはずなのに。
「え?」
「……っ。林檎の歌の歌詞だよ! あれは、陸が……、琉々、君への想いを綴った歌なんだ……!」
「ごめん、はちみつ? 何を言ってるのかよくわからない……」
そう言いながらも、琉々の顔は少し紅くなっていた。
やっぱり、琉々と陸は――。
「何を言ってるのか、って……。陸は変だよ。愛情が狂ってる。琉々だけがいればいい、って思ってるんだ……」
「私だけが?」
「……聞いて、琉々。僕は君が好きだ」
もう僕にはほとんど何も音が聞こえなくなっていた。雨の音も、さっきからうるさく動いていた心臓の音も、記憶の中で陸が奏でているギターの音色も。
ただ琉々だけの声が聞こえるような状況だ。
必死に、琉々の声に縋るように。
「だからっ、……林檎が好きだなんて言わないで……!」
「あ、あのね。大丈夫だから……落ち着いて、はちみつ!」
まるで幼い子をあやすかのように、琉々の手が僕の手に重なる。
「林檎の歌は、私が作詞したの」
そのあと琉々は、透き通ったガラスのような歌声で、林檎の歌を歌ってくれた。
――たとえば 僕は林檎が好きなのだけど
――あるとき そこに林檎はなくって
――もう既に 食べられていたとしたらどうしよう?
――蛇は教えた
――〝その実をお食べ 神の力を得られるよ〟 と
――僕は要らない そんなものは要らない
――ただ 林檎だけがあってくれたらいい
――ねぇ 林檎 笑って 笑って 笑って
――僕に笑って 笑って 笑って 笑って
「……ね? だから大丈夫、はちみつ……」
歌い終えた琉々は、言葉が出ない僕を安心させるために、またあははと笑った。
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