中三の春で、陸は、勉強を理由に陸上部を去ったけど、オレと中原さんは秋の体育祭までやり切った。
クラブ対抗リレーが最後の花道。陸上部――長距離選手だった中原さんは特に意気込んでいて、彼女がアンカーをやってくれたおかげで、伝統を守ることができた。
引退して、すぐに受験勉強に集中できたわけじゃない。でも遊びもそこそこに、なんとか近所の公立高校に合格した。
陸と中原さんも同じ高校だった。
「陸! 有斗! 春からもジュリとよろしくなのだぜ」
「中原さん……高校生になって語尾に『なのだぜ』はやめようよ……」
「まあいいじゃん。どんなに変わっても、中原だーってわかるし」
「だよな、やっぱ陸はわかってるう!」
合格発表の日、寒空の下、マフラーと手袋とコートで完全武装した中原さんが陸に飛びつく。
陸は反動でよろけるようなフリを少し見せて、彼女を受け止めた。
季節はずれの雪がちらつく。
本当は、中原さんはもっと上の高校を目指せたんだと思う。
定期考査でもずっと上位だったような気がするし、何より誰よりも頑張り屋さんだったから。
校則は破るし派手に化粧をして学校に通っていたけど、多分、オレはそんな中原さんに憧れていたのだと思う。
四月から始まる新しい生活を想像した。
緊張して、胸は不安ではち切れそうになる。
友達できるかな。部活はどうしよう。勉強はついていけるかな。
「ジュリと陸が今までどおりいるからさ、だいじょーうーぶ!」
背中をぽんと叩かれた。
振り返ると二人が笑っていた。
ああ、オレは、大丈夫だ。
* * *
実際に新生活が始まってみると、あまりの多忙さに面食らうばかりだった。復習、予習。中学までとは違うスピードで進む授業。
陸と中原さんとはそれぞれクラスも違う。
これじゃ駄目だと思って、部活の仮入部巡りの旅に二人を誘った。
「部活か……。やっぱり最初は陸上部か?」
陸はさっぱり考えていないような顔をしていたので、何となく嫌な予感はしていた。当たった。こいつ何にも考えちゃいねえ。
「いや、いっぱいクラブあるみたいだし、他の部でもいいかなって」
「有斗はすぐ陸上部に入ってたのかと思ってたのだぜ」
更に案の定、中原さんの口癖は治ってない。女子とかにハブられてやしないか心配だ。
「中原さん、何か入りたいところとか考えてる?」
「んーと、弓道部! 面白そう!」
弓道部、と聞いて、ぱっと陸の目が輝いた。
「有斗、上の学年にすごい美人がいるらしいぜ。確か、弓道部だって聞いた」
やっぱり陸も陸だった。
その日の内に弓道場に顔を覗かせると、噂の美人さんはこの春休み既に退部届を出していたらしく、陸は肩を落とした。
「残念だったな、陸」
「元気出してー、陸」
なぜか中原さんと二人で陸を慰める羽目になる。
でも、今日、初めてのオレらを指導してくれた遠藤先輩も結構可愛らしい人だったと思うけど。それに弓道って、面白い。
そもそも美人がいるから入部するっていうのも不純な話だ。
陸上部も見に行ったけど、オレは結局弓道部に入部した。
* * *
中原さんは、五月に入ると、学校を休むことが多くなった。
「……多分、五月病みたいなやつだろうな。頑張りすぎたんだろ」
陸の見解に頷く。
中学時代も、中原さんは五月あたりで体調を崩していた。
携帯電話を持っていない陸の代わりに、オレが彼女にメールをした。
『最近学校来てないけど、元気?』
『んにー。体調が悪くてしばらく行けなさそうなのだぜ』
返事はすぐに返ってきた。
『わかった、無理すんなよ。陸も待ってる』
『ありがと! いつでもジュリにメールしてくれたら嬉しいのだぜ』
彼女らしい、キラキラとしたデコレーション付きメールだった。
* * *
それからオレはまず中間考査におわれ、弓道の練習におわれ、更に夏休みには噂の美人の先輩と恋に落ちるという、まるで漫画の主人公のような生活を過ごすこととなる。
陸はクラブには入らず、学校帰りに公園に寄って、趣味のギターをやっていた。
軽音楽部に入れば? そう茶化しても面倒だと一蹴された。
* * *
学校であったこと全て逐一、中原さんにメールで報告している。
まるで日記のように。時には愚痴ばかりになることもあった。
秋の、遠藤先輩の引退試合だって、オレが家のことで忙しくて練習しなかったから、上手くいかなかった。初心者のオレにも優しかった先輩だからこそ、良い結果を残したかった。悔しい。
でも絶対に先輩のほうが悔しい思いをしているから、面と向かっては言えなかった。謝ってばかりだった。
『センパイには、有斗の気持ちが伝わっていると思うのだぜ』
『ごめんな、中原さんに弱音ばっかり吐いて』
『全然。ジュリ、有斗とメールするの大好きー♪』
段々メールが短くなっていく。返事を待つ時間が長くなる。朝に送ったメールが夕方に返ってくる。夜になる。
最後にはオレは、彼女のことを忘れてしまうんじゃないか。
中原さんが弓道部行きたいって言ったから、オレ、入って、ずっと待っているのに。
またあの頃みたいに、競い合っていたい。
高校生になって、恋人ができた。弓道という新しい道を見つけた。勉強は難しい。だけど、何とかやっていけている。
オレは少しだけ、変わったんだと思う。
日常には相変わらず不安がいっぱい転がっている。
でもそれすらも輝いて見えるような、きっと後から思い出したら顔を赤くするような青春を、今楽しんでいるんだ。
* * *
文化祭で、クラスの出し物である喫茶店の勧誘をしていたオレは、人ごみの中に中原さんの姿を見た。約半年振りの彼女の制服姿が懐かしい。
一瞬目が合って――逸らされた。走って逃げられた。
「中原さん!」
オレも走って追いかけたけど、大きな看板を持ったままじゃ上手く人ごみを割って進めない。見えなくなった。
『中原さん、今どこ?』
あんな反応をされたから怖いけど、メールをしてみる。
すぐに携帯が震えたから、返事かと思えば、遠藤先輩だった。
『今時岡と一緒。中庭のヨーヨーのお店にいるけど、会える? 時岡があんたに話があるんだって』
携帯を持っていないからって先輩をパシるとは。陸は後でシメる必要がありそうだ。
ヨーヨーを何個も携えた先輩と陸はすぐに見つかった。
「これ、みんな時岡が釣ったの。すごくね?」
「陸は本当に器用貧乏ですからね……」
「時岡はいい加減弓道部に入れ。貧乏でもいいから。あんたほど運動神経がいい奴が弓道部じゃないなんてもったいないよ。器用貧乏なんだったらできるできる」
「遠藤先輩はまだそのことを根に持っているんですね……」
「貧乏貧乏言うんじゃねえ!」
じゃ、と。何事もなかったかのように遠藤先輩は雑踏に消える。
「有斗、中原に会ったか?」
オレは携帯を少し見た。返事はまだ来ていない。
「会った。……と言っても、目が合っただけで、逃げられた……」
陸が、あーと声を漏らしながら、額に手をやる。
こういう時の彼は、何かを真剣に考えている。本気で悩んでいる。
陸上部をやめる前や受験の直前日など、中三の時にはよく見た格好だ。
多少の覚悟を決めて、陸に「何かあった?」と訊いた。
「中原に告白された」
「え」
思わず手に持っていた携帯を落とした。端から見れば間抜けな図だけど、慌てて拾い上げる。
「急で、オレも焦って、あまり言葉選ばずに断っちゃって……絶対、あいつを傷つけた……」
脳裏に浮かぶ。あの時、中原さんはどんな顔をしていたか。
オレを見て、寂しそうに、悲しそうに、目を伏せた。赤かった。
「中原、このあとも学校来てくれると思うか……?」
オレは答えられなかった。
* * *
文化祭も終わって帰宅。精神も体力もほとんどすり減らしたような状態だけど、オレは再び自転車にまたがった。
左手に、今年届いた中原さんからの年賀状を握って。
普通の住宅街の普通の一軒家。表札は『中原』で、間違いなさそうだ。
今更ながら緊張してきた。高校生男子が一人で、恋人でもないのに、というかオレ恋人いるのに、放課後女子の家訪れるってどうなんだ。
ほぼ衝動だけでやって来た自分の無鉄砲の性格を恨む。
今なら引き下がれる。
だけど、ここまで来たからには、会いたい。
警察呼ばれませんようにと願いながらインターホンを押すと、開いたドアからは中原さん本人が出てきた。
「……久しぶりなのだぜ」
まさかすんなりと家に入れてくれるとは思いもよらなかったけど、一応彼女の両親は在宅らしい。
安心するやら何やら。
「有斗、来てくれてありがと!」
手際良くお茶とお菓子を出された。長居確定なのか。
「中原さん……本当に、ごめん、上がりこむつもりは……」
「謝りすぎ。有斗は、ジュリの、大事な友達だから。で、何の用?」
何から話せばいい。
訊きたいことはいっぱいあった。
「顔、ちゃんと見たくて」
「ジュリの? わ、化粧すれば良かったのだぜ……」
中原さんは両手を頬にあてる。触れたところから紅色に染まっていく。
「だから陸にフラれちゃったのかなーん? なーんて……」
笑おうと頑張っているみたいだった。
「それはない、絶対ない」
「んー、だよね。……ジュリね、陸のこと、好き」
知っている。
さっき学校で陸に聞いたからではなく。
ずっと前から知っていた。
陸上部に入っていたのも、レベルを下げて同じ高校を選んだのも。
毎日可愛い恰好をして、少しでも印象に残るように、独特の話し方で明るく振舞って。
中原さんは頑張っていたと思う。
「あいつは馬鹿みたいにお人好しだから……ちょっと優しくされただけで好きになるなんて、軽い女だと思われているのだぜ。……きっと、有斗でも良かったんだと、」
「……それは、違うだろ」
今の中原さんは、あの頃と違う。
妥協をして、自分に言い訳をして、どこかに逃げようとしていた。
いつも頑張っているから、たまには休んでもいいんだと、弱い自分を認めていいんだと、オレは思っている。
でもそんな風になってしまった彼女を見るのは、辛かった。
これはオレの自己満足なんだ。毎日メールをして。家まで来て。
元気になってほしい。
「んに……ジュリは、もう学校に行けない。行きたくない」
「……陸の顔見たくない?」
「ううん。……そうじゃない」
次に中原さんが話したのは、オレが全く思いもよらないことだった。
「ジュリは、二重人格なのだぜ」
・ ・ ・
朝、布団の中で目を覚ます、でも体がだるくて、起き上がりたくない。
しばらくごろごろする。携帯をいじる。
両親は共働きで、夕方から翌昼にかけては家に誰もいないらしい。
家が急に広く感じて、まるで自分が幼い子どものように感じた。
――所詮は頑張ることに疲れた、ただの五月病のはずなのに。
昼になって母親が帰宅すると、我に返る。
・ ・ ・
「二重……」
「朝になると、もう駄目。ジュリは、小さな子どもになっちゃう。学校なんて、絶対無理。誰かにそばにいてほしくって、だけど、誰もいないから、もう、頑張れないの……」
そこまで言って、中原さんは泣き出した。唇をぎゅっと結んで、堪えるようにしていたけど、目の端から溢れ出して涙は止まっていない。
「……っこんなんじゃ、人生お終い……なの、かなー……。ゆ、ぅ……有斗……」
こういう時、何て言えばいいのか、オレだってわからない。子どもだ。どうしようもなく、無力である事実を感じる。
先輩の引退試合の時と同じだった。
オレはいつだって、謝るだけだ。
多分オレも悪い部分があったのかもしれない。あの時、陸上部の期待を全て中原さんに押しつけ、勉強の面でも頼りたい気持ちで山々だった。
「中原さん、誕生日まだだろ?」
「え? ……っ……うん、二月だから」
「十五歳だよ、まだ子どもだよ。大人になりたい時期だけど、きっとここで『甘えていいですよ』って神様が言ってる。中原さんが一人でいるのがつらいなら、つらいっていうことを、自分で自分の弱いところを、認めてあげるんだ」
きっと全力で、もう一つの人格を肯定してあげるぐらいならできるはず――それもまた、自己満足でしかないけど。
「オレもまだ十五歳だ。十二月生まれの射手座」
言いたいことがうまくまとまらない。自己紹介を始めてどうするんだ。中原さんも首を傾げていた。
彼女の不安はどこにあるのかを、ちゃんと見つけてあげないと。
クラスで孤立したこと。クラブに入らなかったこと。勉強が難しいこと。朝起きられないこと。子供のように泣きじゃくってしまうこと。――もう、あの頃のように頑張れないことも。
「中原さんは、いっぱい頑張ったよ。頑張らなくていいことまで頑張らなくて、いいんだよ。オレも陸も、学校で待ってるから、気が向いたら来いよ。一人で行くのが嫌なら、迎えに行くから。遠慮するな」
オレが困った時、不安だった時、いつも背中をぽんと叩いてくれた優しい手は、きっと弓道に向いている、と勝手に思う。
今まで通りいるから、大丈夫。
「えっと、だから……全然、人生おしまいなんかじゃない、のだぜ。中原さん」
彼女が、ようやく笑ったような気がした。
クラブ対抗リレーが最後の花道。陸上部――長距離選手だった中原さんは特に意気込んでいて、彼女がアンカーをやってくれたおかげで、伝統を守ることができた。
引退して、すぐに受験勉強に集中できたわけじゃない。でも遊びもそこそこに、なんとか近所の公立高校に合格した。
陸と中原さんも同じ高校だった。
「陸! 有斗! 春からもジュリとよろしくなのだぜ」
「中原さん……高校生になって語尾に『なのだぜ』はやめようよ……」
「まあいいじゃん。どんなに変わっても、中原だーってわかるし」
「だよな、やっぱ陸はわかってるう!」
合格発表の日、寒空の下、マフラーと手袋とコートで完全武装した中原さんが陸に飛びつく。
陸は反動でよろけるようなフリを少し見せて、彼女を受け止めた。
季節はずれの雪がちらつく。
本当は、中原さんはもっと上の高校を目指せたんだと思う。
定期考査でもずっと上位だったような気がするし、何より誰よりも頑張り屋さんだったから。
校則は破るし派手に化粧をして学校に通っていたけど、多分、オレはそんな中原さんに憧れていたのだと思う。
四月から始まる新しい生活を想像した。
緊張して、胸は不安ではち切れそうになる。
友達できるかな。部活はどうしよう。勉強はついていけるかな。
「ジュリと陸が今までどおりいるからさ、だいじょーうーぶ!」
背中をぽんと叩かれた。
振り返ると二人が笑っていた。
ああ、オレは、大丈夫だ。
* * *
実際に新生活が始まってみると、あまりの多忙さに面食らうばかりだった。復習、予習。中学までとは違うスピードで進む授業。
陸と中原さんとはそれぞれクラスも違う。
これじゃ駄目だと思って、部活の仮入部巡りの旅に二人を誘った。
「部活か……。やっぱり最初は陸上部か?」
陸はさっぱり考えていないような顔をしていたので、何となく嫌な予感はしていた。当たった。こいつ何にも考えちゃいねえ。
「いや、いっぱいクラブあるみたいだし、他の部でもいいかなって」
「有斗はすぐ陸上部に入ってたのかと思ってたのだぜ」
更に案の定、中原さんの口癖は治ってない。女子とかにハブられてやしないか心配だ。
「中原さん、何か入りたいところとか考えてる?」
「んーと、弓道部! 面白そう!」
弓道部、と聞いて、ぱっと陸の目が輝いた。
「有斗、上の学年にすごい美人がいるらしいぜ。確か、弓道部だって聞いた」
やっぱり陸も陸だった。
その日の内に弓道場に顔を覗かせると、噂の美人さんはこの春休み既に退部届を出していたらしく、陸は肩を落とした。
「残念だったな、陸」
「元気出してー、陸」
なぜか中原さんと二人で陸を慰める羽目になる。
でも、今日、初めてのオレらを指導してくれた遠藤先輩も結構可愛らしい人だったと思うけど。それに弓道って、面白い。
そもそも美人がいるから入部するっていうのも不純な話だ。
陸上部も見に行ったけど、オレは結局弓道部に入部した。
* * *
中原さんは、五月に入ると、学校を休むことが多くなった。
「……多分、五月病みたいなやつだろうな。頑張りすぎたんだろ」
陸の見解に頷く。
中学時代も、中原さんは五月あたりで体調を崩していた。
携帯電話を持っていない陸の代わりに、オレが彼女にメールをした。
『最近学校来てないけど、元気?』
『んにー。体調が悪くてしばらく行けなさそうなのだぜ』
返事はすぐに返ってきた。
『わかった、無理すんなよ。陸も待ってる』
『ありがと! いつでもジュリにメールしてくれたら嬉しいのだぜ』
彼女らしい、キラキラとしたデコレーション付きメールだった。
* * *
それからオレはまず中間考査におわれ、弓道の練習におわれ、更に夏休みには噂の美人の先輩と恋に落ちるという、まるで漫画の主人公のような生活を過ごすこととなる。
陸はクラブには入らず、学校帰りに公園に寄って、趣味のギターをやっていた。
軽音楽部に入れば? そう茶化しても面倒だと一蹴された。
* * *
学校であったこと全て逐一、中原さんにメールで報告している。
まるで日記のように。時には愚痴ばかりになることもあった。
秋の、遠藤先輩の引退試合だって、オレが家のことで忙しくて練習しなかったから、上手くいかなかった。初心者のオレにも優しかった先輩だからこそ、良い結果を残したかった。悔しい。
でも絶対に先輩のほうが悔しい思いをしているから、面と向かっては言えなかった。謝ってばかりだった。
『センパイには、有斗の気持ちが伝わっていると思うのだぜ』
『ごめんな、中原さんに弱音ばっかり吐いて』
『全然。ジュリ、有斗とメールするの大好きー♪』
段々メールが短くなっていく。返事を待つ時間が長くなる。朝に送ったメールが夕方に返ってくる。夜になる。
最後にはオレは、彼女のことを忘れてしまうんじゃないか。
中原さんが弓道部行きたいって言ったから、オレ、入って、ずっと待っているのに。
またあの頃みたいに、競い合っていたい。
高校生になって、恋人ができた。弓道という新しい道を見つけた。勉強は難しい。だけど、何とかやっていけている。
オレは少しだけ、変わったんだと思う。
日常には相変わらず不安がいっぱい転がっている。
でもそれすらも輝いて見えるような、きっと後から思い出したら顔を赤くするような青春を、今楽しんでいるんだ。
* * *
文化祭で、クラスの出し物である喫茶店の勧誘をしていたオレは、人ごみの中に中原さんの姿を見た。約半年振りの彼女の制服姿が懐かしい。
一瞬目が合って――逸らされた。走って逃げられた。
「中原さん!」
オレも走って追いかけたけど、大きな看板を持ったままじゃ上手く人ごみを割って進めない。見えなくなった。
『中原さん、今どこ?』
あんな反応をされたから怖いけど、メールをしてみる。
すぐに携帯が震えたから、返事かと思えば、遠藤先輩だった。
『今時岡と一緒。中庭のヨーヨーのお店にいるけど、会える? 時岡があんたに話があるんだって』
携帯を持っていないからって先輩をパシるとは。陸は後でシメる必要がありそうだ。
ヨーヨーを何個も携えた先輩と陸はすぐに見つかった。
「これ、みんな時岡が釣ったの。すごくね?」
「陸は本当に器用貧乏ですからね……」
「時岡はいい加減弓道部に入れ。貧乏でもいいから。あんたほど運動神経がいい奴が弓道部じゃないなんてもったいないよ。器用貧乏なんだったらできるできる」
「遠藤先輩はまだそのことを根に持っているんですね……」
「貧乏貧乏言うんじゃねえ!」
じゃ、と。何事もなかったかのように遠藤先輩は雑踏に消える。
「有斗、中原に会ったか?」
オレは携帯を少し見た。返事はまだ来ていない。
「会った。……と言っても、目が合っただけで、逃げられた……」
陸が、あーと声を漏らしながら、額に手をやる。
こういう時の彼は、何かを真剣に考えている。本気で悩んでいる。
陸上部をやめる前や受験の直前日など、中三の時にはよく見た格好だ。
多少の覚悟を決めて、陸に「何かあった?」と訊いた。
「中原に告白された」
「え」
思わず手に持っていた携帯を落とした。端から見れば間抜けな図だけど、慌てて拾い上げる。
「急で、オレも焦って、あまり言葉選ばずに断っちゃって……絶対、あいつを傷つけた……」
脳裏に浮かぶ。あの時、中原さんはどんな顔をしていたか。
オレを見て、寂しそうに、悲しそうに、目を伏せた。赤かった。
「中原、このあとも学校来てくれると思うか……?」
オレは答えられなかった。
* * *
文化祭も終わって帰宅。精神も体力もほとんどすり減らしたような状態だけど、オレは再び自転車にまたがった。
左手に、今年届いた中原さんからの年賀状を握って。
普通の住宅街の普通の一軒家。表札は『中原』で、間違いなさそうだ。
今更ながら緊張してきた。高校生男子が一人で、恋人でもないのに、というかオレ恋人いるのに、放課後女子の家訪れるってどうなんだ。
ほぼ衝動だけでやって来た自分の無鉄砲の性格を恨む。
今なら引き下がれる。
だけど、ここまで来たからには、会いたい。
警察呼ばれませんようにと願いながらインターホンを押すと、開いたドアからは中原さん本人が出てきた。
「……久しぶりなのだぜ」
まさかすんなりと家に入れてくれるとは思いもよらなかったけど、一応彼女の両親は在宅らしい。
安心するやら何やら。
「有斗、来てくれてありがと!」
手際良くお茶とお菓子を出された。長居確定なのか。
「中原さん……本当に、ごめん、上がりこむつもりは……」
「謝りすぎ。有斗は、ジュリの、大事な友達だから。で、何の用?」
何から話せばいい。
訊きたいことはいっぱいあった。
「顔、ちゃんと見たくて」
「ジュリの? わ、化粧すれば良かったのだぜ……」
中原さんは両手を頬にあてる。触れたところから紅色に染まっていく。
「だから陸にフラれちゃったのかなーん? なーんて……」
笑おうと頑張っているみたいだった。
「それはない、絶対ない」
「んー、だよね。……ジュリね、陸のこと、好き」
知っている。
さっき学校で陸に聞いたからではなく。
ずっと前から知っていた。
陸上部に入っていたのも、レベルを下げて同じ高校を選んだのも。
毎日可愛い恰好をして、少しでも印象に残るように、独特の話し方で明るく振舞って。
中原さんは頑張っていたと思う。
「あいつは馬鹿みたいにお人好しだから……ちょっと優しくされただけで好きになるなんて、軽い女だと思われているのだぜ。……きっと、有斗でも良かったんだと、」
「……それは、違うだろ」
今の中原さんは、あの頃と違う。
妥協をして、自分に言い訳をして、どこかに逃げようとしていた。
いつも頑張っているから、たまには休んでもいいんだと、弱い自分を認めていいんだと、オレは思っている。
でもそんな風になってしまった彼女を見るのは、辛かった。
これはオレの自己満足なんだ。毎日メールをして。家まで来て。
元気になってほしい。
「んに……ジュリは、もう学校に行けない。行きたくない」
「……陸の顔見たくない?」
「ううん。……そうじゃない」
次に中原さんが話したのは、オレが全く思いもよらないことだった。
「ジュリは、二重人格なのだぜ」
・ ・ ・
朝、布団の中で目を覚ます、でも体がだるくて、起き上がりたくない。
しばらくごろごろする。携帯をいじる。
両親は共働きで、夕方から翌昼にかけては家に誰もいないらしい。
家が急に広く感じて、まるで自分が幼い子どものように感じた。
――所詮は頑張ることに疲れた、ただの五月病のはずなのに。
昼になって母親が帰宅すると、我に返る。
・ ・ ・
「二重……」
「朝になると、もう駄目。ジュリは、小さな子どもになっちゃう。学校なんて、絶対無理。誰かにそばにいてほしくって、だけど、誰もいないから、もう、頑張れないの……」
そこまで言って、中原さんは泣き出した。唇をぎゅっと結んで、堪えるようにしていたけど、目の端から溢れ出して涙は止まっていない。
「……っこんなんじゃ、人生お終い……なの、かなー……。ゆ、ぅ……有斗……」
こういう時、何て言えばいいのか、オレだってわからない。子どもだ。どうしようもなく、無力である事実を感じる。
先輩の引退試合の時と同じだった。
オレはいつだって、謝るだけだ。
多分オレも悪い部分があったのかもしれない。あの時、陸上部の期待を全て中原さんに押しつけ、勉強の面でも頼りたい気持ちで山々だった。
「中原さん、誕生日まだだろ?」
「え? ……っ……うん、二月だから」
「十五歳だよ、まだ子どもだよ。大人になりたい時期だけど、きっとここで『甘えていいですよ』って神様が言ってる。中原さんが一人でいるのがつらいなら、つらいっていうことを、自分で自分の弱いところを、認めてあげるんだ」
きっと全力で、もう一つの人格を肯定してあげるぐらいならできるはず――それもまた、自己満足でしかないけど。
「オレもまだ十五歳だ。十二月生まれの射手座」
言いたいことがうまくまとまらない。自己紹介を始めてどうするんだ。中原さんも首を傾げていた。
彼女の不安はどこにあるのかを、ちゃんと見つけてあげないと。
クラスで孤立したこと。クラブに入らなかったこと。勉強が難しいこと。朝起きられないこと。子供のように泣きじゃくってしまうこと。――もう、あの頃のように頑張れないことも。
「中原さんは、いっぱい頑張ったよ。頑張らなくていいことまで頑張らなくて、いいんだよ。オレも陸も、学校で待ってるから、気が向いたら来いよ。一人で行くのが嫌なら、迎えに行くから。遠慮するな」
オレが困った時、不安だった時、いつも背中をぽんと叩いてくれた優しい手は、きっと弓道に向いている、と勝手に思う。
今まで通りいるから、大丈夫。
「えっと、だから……全然、人生おしまいなんかじゃない、のだぜ。中原さん」
彼女が、ようやく笑ったような気がした。
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