家を飛び出した時にはまだ青かった空が、ゆっくりと赤みを帯び始めている。
 玲は、周りをきょろきょろとしながら歩いていた。
 知らない学校のチャイム。どこかの家からは魚の焼ける良い匂い。心なし懐かしいような雰囲気が漂う。
 だけどここはどこだろう。
「小六になって迷子とか……ねーよなぁ……」
 勢いだけで行動するとこのザマだ。
 学校の人たちには絶対に知られたくない汚点ができてしまった。

 そのまま歩いていると、小さな踏切が見えた。
 カンカンカンカンとけたたましく警報が鳴り、遮断機が下りる。
 玲は踏切を渡るか渡らないかで悩み、「線路沿いに歩けばいいか」と安易な結論に辿り着いた。
 着いた先が最寄り駅じゃなくても、多分大丈夫だろう。
 線路際で赤い彼岸花が揺れているのが、視界に入った。
「……彼岸花?」
 季節はとっくに冬のはずなのに――彼岸花は秋に咲くはずの花なのに――どうして今咲いている?
 玲が呟くと同時に、どこか近くで女の子の悲鳴が聞こえた。
「危ないっ!」
 あぁ、あれは電車がブレーキをかける音。

 頭の中の遠いところで、琉々が玲の名前を叫んでいる。
 ような気がした。

「……いっ……てて……」
「きみ、大丈夫?」
 玲が目を覚ますと、中学生ぐらいの少女が傍に立っていた。
「良かった、間に合って。見たところ擦り傷だけで済んだみたいだし、無事そうで何より」
 玲は立ち上がって周りを見る。
 思わず電車に轢かれたと思っていたが、そうではないようだ。
 アスファルトで擦りむいたらしい右足が痛むだけ。
「えっと……あなたが助けてくれたんですか」
 すると少女は怪訝そうな顔をする。
「……もしかして、きみ、わたしのことが見えるの?」
 玲の質問には答えず、彼女はそう言った。
「生きてる人と喋るのって、何年ぶりかな」
「……え?」
「わたし、死んでるんよ」
「死……?」
 玲は改めて彼女を見た。
 黒髪の長いお下げ。セーラー服のスカートは膝より下。靴を履いていない足元は、透けてはいないものの、浮遊感を感じる。
「驚かせちゃったかな? ごめんね」
「い、いえ……」
 電車に轢かれたかと思いきや、目を覚ませば幽霊の少女。
 ――ここはどこだろう。
 さっきと同じ、踏切の前だけど、もしかして冥土なんじゃないだろうか。
 頬を思いっきりつねってみたら、痛かった。
「うん、残念ながらこれは現実なんだよね。早く帰んなさいな。もう日が暮れちゃうから」
 西のほうは、それは綺麗な夕焼け空で。
「……嫌だ。帰りたくない」
 玲は下を向いて、唇を噛んだ。
 少女はそんな玲の様子を不思議に思ったらしく、
「何かあったの?」
 と優しい声音で訊いてくる。
 玲は愚痴るように呟いた。
「……姉ちゃんと、喧嘩しちゃって……」
「ふうん……うん、うん。それで今気まずいってことか」
 俯いた視界で、白い靴下がぴょんと弾む。
「よく分かるよ。わたしもよく姉と喧嘩したんだ……大体はさ、お姉ちゃんが悪い! って思うんだよね」
「そう! 絶対姉ちゃんが悪い」
 二人はお互いに顔を見合わせた。
「それで、今日は、どんなことで喧嘩しちゃったん?」
「……一緒に観ようって約束してた映画、行けないって」
「急に?」
「うん」
 それは玲がずっと楽しみにしていたホラー映画だった。
「俺、姉ちゃんとお出かけするのなんて久しぶりでさ、前売り券とかちゃんと自分で買って、準備してたのに」
 琉々は怖いものが苦手だから、それを克服しようという名目で玲が取り付けた約束。確かに一方的だったかもしれないが、当日になってから「やっぱり無理」は、玲にとって許せなかった。
 ちなみに幽霊ものだということは、少女には伏せておく。
「きみは、お姉さんと仲が良いんだね」
「普段は」
「こんな優しくてかっこいい弟さんがいるなんて、お姉さんも幸せなんじゃないかな」
 少女は羨ましそうに微笑んだ。
 カンカンカンカン。踏切の警報が鳴って遮断機が下りる。
「そうだ、わたし……」
 貨物列車が通り過ぎる音がうるさくて、その先の少女の言葉は、玲には聞こえなかった。
 口は動いているようだ。どうやって声が聞こえるのだろう。声帯があるから声は届くというのに。
 冬の冷たい風が赤い彼岸花を揺らす。
 少女のお下げは、揺れない。
「……あと、もう線路に飛び出したら駄目だよ?」
「えっ、あ、うん……、大丈夫」
「家に帰ったら、仲直りしなさいな。今は許せなくても、きみに悪いところがなくても、きっと後悔しちゃうんだからね」
 約束。
 そう言って、少女は右手の小指を差し出した。
 つられるようにして、玲も右手の小指を、彼女の指に絡ませる。
 漫画のように透けるのかと思えば、足元がくっきり見えるのと同じのようで、確かに指は交差した。
 温かくない、変な感触。
 彼女はもう死んでいるけど、幽霊だけど、そこに居る。
「ゆーびきーりげーんまん、嘘ついたら針千本呑―ます!」
 歌い終えると同時に、さっきより強い風が玲の頬を刺すように吹き荒れた。
 目を開ければ、最後の赤を残した空と、踏切と、彼岸花だけ。
 少女は居なかった。

 ――そうだ、わたしの名前はね、小暮桜子。
 もう会えないかもしれないけど、会えないからこそ、お別れと友情の証に聞いて。
 彼岸花の花言葉はね、情熱。
 きみの想いは、きっとお姉さんにも伝わるよ。うん、うん。

 どこかで、琉々が玲の名前を叫んでいるのに気づき、振り返る。
 自転車のライトが真っ直ぐこちらに向かってきていた。
「姉ちゃーん!」
 玲は、遠くからでも見えるように、大きく手を振る。
 多分あの自転車をこいでいるのは陸だろう。琉々は自転車すらも怖がってろくに乗れない。付き合わされている幼馴染に軽く同情する。
 ごめん、陸。ごめん、姉ちゃん。
 でもこれだけは言わせてもらおう。
「二人乗りなんていけないんだー!」
「どの口が言うか! 馬鹿!」
 玲の後ろで、彼岸花は静かに揺れていた。
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