「ずっと、三年生になったら、言おうと思っていたんだよ」
「受験するから?」
「そう、だから、優美の事が、嫌いになったわけじゃないよ……」
「……うん」
「しばらく、友達でいよう?」
さよならは言わなかった。
秋雨が静かに降り始める。
* * *
出会ったきっかけは高校一年生の時。四月。
学級委員初めての大仕事は、クラス全員の自己紹介カードを教室の後ろに掲示するものだった。
遠藤優美は弓道部に行きたい気持ちを堪えて作業をしていた。
「佐々木ー、そっち終わりそう?」
「あ……、ごめん。まだ全然……」
もう一人の学級委員、佐々木東介はとても慎重に一枚一枚貼っていく。
「……今日中に終わる?」
「いやいや、大丈夫だよ、終わらせるから」
じきにノルマの半分を終えた優美は、自分がやったところだけ、妙に曲がって見えることに気がついた。
というか現に曲がっていた。
「佐々木が綺麗すぎんのよ!」
「僕のせいか」
優美が冗談混じりに叫ぶと、彼は楽しそうにニコニコと笑っていた。
「……あのさ、あたしの分終わったんだけど」
「自分の分が終わったら、もう手伝ってくれないの?」
帰りたい、と言う前に、帰るなという牽制が来る。
「ここで遠藤さんが帰っちゃったら、これ、終わらないなぁ……」
「佐々木って案外意地悪」
「そうでもないよ」
教室の後ろ、カードの四分の三は曲がっていた。
クラスの子は何も言わなかった。だけど、残りの四分の一が優美にとっては眩しい。
* * *
「京子、あたし、東介にフラれた」
「そう……それは、私で良ければ何でも聞くけれど」
優美が親友の春田京子に電話をかけると、彼女はそう言った。
学校一の美人と囁かれている彼女だが、現在は優美の所属している弓道部の後輩、光村有斗と恋愛中なのだった。
まるで小学生の恋のように、初々しい乙女と初々しい少年。
優美にとって、今日に限っては羨ましく思える。
「ありがとう、京子。……でも、本当にただの愚痴だし」
「愚痴を吐かない人間なんて居ないわ」
それでも優美が彼女に頼ってしまうのは、この何でも受け止めてくれる懐の深さにあるだろう。
優しい声を聞いて、安心する。安心して、話せる。
「……あたし、もっと一緒に居られるもんだと思ってた……」
佐々木東介。
彼は成績優秀に加え、普段の素行も良いので、先生からも評価が高い。
善良な人で、動物が好き。中指で眼鏡をおし上げるのが癖。
元陸上部。元生徒会長。そして元優美の恋人。
「東介ね、勉強するんだって。進学するから」
「……でしょうね。それで?」
「あたしと居たら勉強できないってことだと思う」
さよならも言わなかった。そんな曖昧なお別れ。
学校に行けばまた会える。遠くに行くわけじゃない。
「明日も会えるわ」
「……あたし……会いたくない……」
仕方なさそうな京子のため息が、電話越しに聞こえる。
* * *
まさか付き合って二年で別れることになるなんて、当時の自分は考えもしなかっただろう。それほどに、大好きな人だ。
と遠藤優美はそこまで考え、再び溢れそうになった涙を堪える。
重い足を引きずってようやく家に着き、毛布にくるまった。あんなに太陽が輝いていた夏はもう終わり、朝晩と足先が冷える季節になった。街は金木犀の香りが広がる。そろそろ炬燵の出番が来る。
そして高校三年生には大きな海が待っている。
毛布だと水を吸って重くなり、やがて沈む。
その日は懐かしい夢を見た。
東介が一年生向けの大会で、入賞を果たした時。
弓道部の練習もなくて、優美は何となくその試合を観に行っていた。
学級新聞にクラブ活動のコーナーがあるから、そこのネタにしよう、と。
「……遠藤さん、今日はわざわざ来てくれてありがとう」
「いいよ。学級新聞に書かないとね、佐々木が頑張ったこと」
「それ、僕が書こうとしてたんだけどなぁ……まぁ、いいか」
「……ところで、あ、あのうですね、遠藤さん」
「何よ? かちこちになっちゃって」
「もし、次の大会で、一位になったら、……僕とお付き合いしてください」
あの時は一回断ったんだった。
友達からスタートしようということにして。
* * *
翌日から優美はクラブに復帰した。
記憶に無かっただけで、昨日はちゃんと顧問に「今日は帰ります」と伝えていたようだ。怒られなかったので胸を撫で下ろす。
「遠藤先輩、大丈夫なんですか?」
有斗が心配そうな顔で訊いてくる。
「まぁね」
秋の大会が近い。
三年生は既に引退している頃なのだが、優美はまだ残っていた。
「……これじゃ、東介に呆れられるのも無理ないかも」
「え? 佐々木先輩がどうかしましたか?」
「何でもない!」
有斗に独り言を聞かれてしまったのは恥ずかしい。
「今日も練習、練習!」
「はい!」
後輩たちの声は元気がいい。
負けていられないなぁ、と優美は沈みがちな心の中で思った。
* * *
優美と東介が付き合っていたということを知っている人はあまりいない。
彼らに人脈が無かったわけではなく、ただ単に学校においては控えめなお付き合いしかしていなかったからだ。それでも知っている人からは、仲の良い二人だと評判だった。
例えばすれ違って目が合えば思わず笑顔になるような。そっとメールを回して、日曜日に会う約束をするような。ささやかな幸せを二年間積み重ねてきたそのままの形。
東介は今どんな気持ちなのだろう。
厄介払いをして、せいせいした気分なのか。
優美はそればかり気になっていた。
* * *
「皆もう練習やってるー?」
「遠藤先輩。こんにちは」
「あ、どうも優美先輩。お邪魔してます」
その日、弓道場には有斗の親友、時岡陸が遊びに来た。
優美は鞄を床に投げ落とし、陸めがけて走る。
その勢いはさながら獲物を見つけた肉食獣のよう。
「時岡ー! 今日という今日こそは入部届出せ!」
「うあっ、開口一番に襲いかかんないでくれますか?」
「避けられた! あたし悔しい。何で時岡みたいな万能選手が、よりにもよって帰宅部なんて……」
優美ががっくりと肩を落としている横で、陸はチャーミングにウインクを決めて舌を出した。
「てへ」
「可愛くねえ!」
「遠藤先輩。陸にかわいさを求めたって無駄ですよ」
「あたしは可愛い時岡を見たいなんて一言も言ってないし……」
で、何の用? と優美は最後に加える。
今日はまだ他の部員は来ていないようだ。
この場には、この三人だけ。
陸は道場を見渡し、有斗の顔、そして優美の顔を見る。
「用ですか? まあ、ちょっと可愛いから京子先輩を拉致りたいなあと思って……」
「あたしが許すと思ったか」
「オレが許すと思ったか」
駆け落ちと言い換えれば響きはロマン溢れる冒険。
日本で冒すとそれは犯すに変貌する。拉致は犯罪だ。
「犯罪予告とはいい度胸だなぁ? 時岡」
「うわわあ優美先輩弓持ってこないでください! 構えないで!」
逃げる陸と追う優美と有斗の図が出来上がった。
きっと弓道の神様が見たら怒るような図式。
散々脅しをかけ鎌をかけて気が済んだのか、優美は座りこんだ。
「さて、そろそろ練習始めようね」
「はい」
二人共、良い返事だった。
「あ、時岡は帰れ」
「酷い」
「あんたは弓道部じゃないでしょ!」
* * *
部活動を終えて帰る。今日も一人だ。
「京子に電話しようかなぁ」
長い影が二つあった頃を思い返しそうになってまた涙ぐみ。
携帯電話のメールボックスを何度も確認して、溜息を吐く。
どこからかカレーのいい匂いが流れてきた。
「皆勉強してるんだよねぇ……」
邪魔したら駄目だから。携帯電話は電源を切った。
家に帰ったら勉強、家に帰ったら勉強と何度も繰り返す。
多分夕食をとったらすぐ眠りについてしまうだろうけど。
こんなに疲れるぐらい部活動に注ぎ込んでも、東介を忘れられない自分がいる。
学校ですれ違っても、もう目は合わさない。メールも回さない。
友達でいよう、と最後に彼は言ったのに。
* * *
大会が近づくにつれ、有斗は集中力に欠けてきた。
曰く本番に弱いらしいが、練習は本番じゃないと優美が言っても無駄なところをみると単にプレッシャーに弱いだけか。
「光村。九連続外れだよ。体力もってないんじゃない?」
「すみません」
「大丈夫。来週まで時間あるから。頑張れ」
「……はい」
そしてまた外れる矢。
「落ち着いてやったらいいよ。焦らないで」
優美は一年生の頃の自分と重ねて見ているような気がした。
だから、本人も分かっているであろうことを言うのは心苦しい。
落ち着いてやったらいいよ。
それは東介が優美にかけた言葉でもあった。
まだ弓道部に入って間もない頃。弓道だけじゃない、委員会活動や教室において、彼は常に優美をフォローする側だった。
お節介焼きというわけではなかった。人が好いだけ。
しかしその人の好さに、何度助けられたことか。
「遠藤先輩。……先輩?」
「あぁ、ごめん。ぼーっとしちゃった」
「矢、当たりましたよ。先輩のおかげです」
「あたしのおかげじゃなくて、自分で当てたんでしょ」
多分東介ならこういう時、こう言うんだろうな。と優美は思った。
再び有斗は弓を構えた。
まるで水の中にいるような、不思議な空間が生まれる。
その静寂は突然破られた。
荒々しく開けられた扉の方を見やると、西日を背にした金髪。
「有斗! お前のお母さんがまた……っ」
「……え?」
「いいから早く来いよ!」
陸の叫び声が道場に響いた。
部員達も異変に気付いたようで、ざわついた空気になる。
「皆は練習続けてー! 光村は今すぐ行きなさい」
優美は手をぱんぱんと叩いて促した。
有斗は陸に連れられて、夕陽に消えた。
* * *
『明日クラブを休ませていただきます』
優美の携帯電話に届いたメールは有斗からのものだった。
彼の母親は疲労から来る病で倒れたそうだ。元々病弱な母なので気にしないでくださいと文末にあった。
「大丈夫らしいけど……何だかなぁ」
こういう時、どういう言葉をかけたらいいのかわからなかった。
授業で教わっただろうか。これだから勉強は嫌いだ。
大切な事は、何も教えてくれない。
そういう事を優美に一番優しく教えてくれたのは、東介だった。
あの笑顔に会いたい。
* * *
最後の大会は予選敗退に終わった。
有斗は一回だけ練習に訪れたものの、良い結果は残せず。
「優美先輩……ごめんなさい」
「謝んなくてもいいよ」
それでも半分八つ当たりのように。優美は続けた。
「光村。家のこと理由にしてちゃ、部活から逃げてるだけだからね。そんなんじゃ強くならないから」
「……先輩は部活を理由にして勉強から逃げているじゃないですか」
思いもしないカウンターが返ってきた。
有斗はしまったという顔で口を手で押さえる。
「……すみません」
「いいよ。……もう、あたし、引退だから」
「すみません」
「謝んないで」
有斗が謝る度に、自分が醜く感じた。
彼なりの優しさが身に突き刺さる。
* * *
勉強しているかもしれない。迷惑かもしれない。
それでも話を聞いてほしくて、優美は京子に電話をかけた。
「私で良ければ、何でも聞くわ」
「本当……いつもありがとう、京子」
まず大会の結果を伝えた。
有斗が部活動に全然参加できなかったのは、彼女も知っている。そして彼に八つ当たりしてしまったことを。
ひたすら京子に愚痴としてぶちまけた。
「光村は心配してくれていたんだ……あたしのこと。それなのにあたしは、光村のお母さん病気なのに、来ない方が悪いみたいな言い方しちゃって」
部活動にかまけて勉強していない自分を。
余計な心配はただの偽善かもしれない。
それでも、偽善の中に優しさはある。
「有斗君ってばお節介焼きさんなのね」
京子は電話の向こうで嬉しそうだった。
「私は部活に一生懸命な優美が好きよ。……きっと、佐々木君もそうだったんじゃないかしら」
「東介が?」
「彼が優しいのは、貴方にだけよ」
勉強でわからないことがあれば何でも教えてくれた。
委員会の雑務を一緒に居残って手伝ってくれた。
いつも最後まで優美の話を聞いてくれた。
別れる時は、さよならは言わなかった。
「どうせ大学に受かったらよりを戻すんでしょう?」
秋の最後の大会をやり切って、その後は勉強に打ちこんでくれたらいいだとか、そんな魂胆だったのだ。
彼は京子に全てを話していたらしい。
理系と文系ではいい加減教えられる範囲も変わってくる。友達でも勉強は一緒にできる。
ショックが大きすぎて、全然落ち着いてなかった。
一人よがりに恋をしていた。
十回連続で的を外した有斗よりも、ずっと当てずっぽう。
「全然優しくないよ……そんなのわかりにくいよ」
「さしずめ『宿題』ってあたりだったりしてね?」
「京子は優しすぎ」
「優しいのは私だけじゃないわ」
有斗も陸も。東介も。
手を差し伸べるだけが優しさじゃない。
心を傷つけないだけが優しさじゃない。
「貴方もね。優しくて、美しい。それが優美でしょう」
「あたしって優しいかな?」
京子は少し黙った。
この答えも、『宿題』ということなのだろうか。
「……優美。今夜は勉強したらどうかしら?」
「もう寝てもいい?」
「駄目よ」
最後に悪戯っぽく付け加える親友が憎い、でも大好きだ。
駄目元で東介にメールをしてから、優美は寝た。
* * *
桜が咲いたら、優しいあの人にもう一度。
「好きです」
って。
答え合わせをしに行こう。
間違っていたらどうしようかな。
赤ペンで書き直したら駄目かな。
「受験するから?」
「そう、だから、優美の事が、嫌いになったわけじゃないよ……」
「……うん」
「しばらく、友達でいよう?」
さよならは言わなかった。
秋雨が静かに降り始める。
* * *
出会ったきっかけは高校一年生の時。四月。
学級委員初めての大仕事は、クラス全員の自己紹介カードを教室の後ろに掲示するものだった。
遠藤優美は弓道部に行きたい気持ちを堪えて作業をしていた。
「佐々木ー、そっち終わりそう?」
「あ……、ごめん。まだ全然……」
もう一人の学級委員、佐々木東介はとても慎重に一枚一枚貼っていく。
「……今日中に終わる?」
「いやいや、大丈夫だよ、終わらせるから」
じきにノルマの半分を終えた優美は、自分がやったところだけ、妙に曲がって見えることに気がついた。
というか現に曲がっていた。
「佐々木が綺麗すぎんのよ!」
「僕のせいか」
優美が冗談混じりに叫ぶと、彼は楽しそうにニコニコと笑っていた。
「……あのさ、あたしの分終わったんだけど」
「自分の分が終わったら、もう手伝ってくれないの?」
帰りたい、と言う前に、帰るなという牽制が来る。
「ここで遠藤さんが帰っちゃったら、これ、終わらないなぁ……」
「佐々木って案外意地悪」
「そうでもないよ」
教室の後ろ、カードの四分の三は曲がっていた。
クラスの子は何も言わなかった。だけど、残りの四分の一が優美にとっては眩しい。
* * *
「京子、あたし、東介にフラれた」
「そう……それは、私で良ければ何でも聞くけれど」
優美が親友の春田京子に電話をかけると、彼女はそう言った。
学校一の美人と囁かれている彼女だが、現在は優美の所属している弓道部の後輩、光村有斗と恋愛中なのだった。
まるで小学生の恋のように、初々しい乙女と初々しい少年。
優美にとって、今日に限っては羨ましく思える。
「ありがとう、京子。……でも、本当にただの愚痴だし」
「愚痴を吐かない人間なんて居ないわ」
それでも優美が彼女に頼ってしまうのは、この何でも受け止めてくれる懐の深さにあるだろう。
優しい声を聞いて、安心する。安心して、話せる。
「……あたし、もっと一緒に居られるもんだと思ってた……」
佐々木東介。
彼は成績優秀に加え、普段の素行も良いので、先生からも評価が高い。
善良な人で、動物が好き。中指で眼鏡をおし上げるのが癖。
元陸上部。元生徒会長。そして元優美の恋人。
「東介ね、勉強するんだって。進学するから」
「……でしょうね。それで?」
「あたしと居たら勉強できないってことだと思う」
さよならも言わなかった。そんな曖昧なお別れ。
学校に行けばまた会える。遠くに行くわけじゃない。
「明日も会えるわ」
「……あたし……会いたくない……」
仕方なさそうな京子のため息が、電話越しに聞こえる。
* * *
まさか付き合って二年で別れることになるなんて、当時の自分は考えもしなかっただろう。それほどに、大好きな人だ。
と遠藤優美はそこまで考え、再び溢れそうになった涙を堪える。
重い足を引きずってようやく家に着き、毛布にくるまった。あんなに太陽が輝いていた夏はもう終わり、朝晩と足先が冷える季節になった。街は金木犀の香りが広がる。そろそろ炬燵の出番が来る。
そして高校三年生には大きな海が待っている。
毛布だと水を吸って重くなり、やがて沈む。
その日は懐かしい夢を見た。
東介が一年生向けの大会で、入賞を果たした時。
弓道部の練習もなくて、優美は何となくその試合を観に行っていた。
学級新聞にクラブ活動のコーナーがあるから、そこのネタにしよう、と。
「……遠藤さん、今日はわざわざ来てくれてありがとう」
「いいよ。学級新聞に書かないとね、佐々木が頑張ったこと」
「それ、僕が書こうとしてたんだけどなぁ……まぁ、いいか」
「……ところで、あ、あのうですね、遠藤さん」
「何よ? かちこちになっちゃって」
「もし、次の大会で、一位になったら、……僕とお付き合いしてください」
あの時は一回断ったんだった。
友達からスタートしようということにして。
* * *
翌日から優美はクラブに復帰した。
記憶に無かっただけで、昨日はちゃんと顧問に「今日は帰ります」と伝えていたようだ。怒られなかったので胸を撫で下ろす。
「遠藤先輩、大丈夫なんですか?」
有斗が心配そうな顔で訊いてくる。
「まぁね」
秋の大会が近い。
三年生は既に引退している頃なのだが、優美はまだ残っていた。
「……これじゃ、東介に呆れられるのも無理ないかも」
「え? 佐々木先輩がどうかしましたか?」
「何でもない!」
有斗に独り言を聞かれてしまったのは恥ずかしい。
「今日も練習、練習!」
「はい!」
後輩たちの声は元気がいい。
負けていられないなぁ、と優美は沈みがちな心の中で思った。
* * *
優美と東介が付き合っていたということを知っている人はあまりいない。
彼らに人脈が無かったわけではなく、ただ単に学校においては控えめなお付き合いしかしていなかったからだ。それでも知っている人からは、仲の良い二人だと評判だった。
例えばすれ違って目が合えば思わず笑顔になるような。そっとメールを回して、日曜日に会う約束をするような。ささやかな幸せを二年間積み重ねてきたそのままの形。
東介は今どんな気持ちなのだろう。
厄介払いをして、せいせいした気分なのか。
優美はそればかり気になっていた。
* * *
「皆もう練習やってるー?」
「遠藤先輩。こんにちは」
「あ、どうも優美先輩。お邪魔してます」
その日、弓道場には有斗の親友、時岡陸が遊びに来た。
優美は鞄を床に投げ落とし、陸めがけて走る。
その勢いはさながら獲物を見つけた肉食獣のよう。
「時岡ー! 今日という今日こそは入部届出せ!」
「うあっ、開口一番に襲いかかんないでくれますか?」
「避けられた! あたし悔しい。何で時岡みたいな万能選手が、よりにもよって帰宅部なんて……」
優美ががっくりと肩を落としている横で、陸はチャーミングにウインクを決めて舌を出した。
「てへ」
「可愛くねえ!」
「遠藤先輩。陸にかわいさを求めたって無駄ですよ」
「あたしは可愛い時岡を見たいなんて一言も言ってないし……」
で、何の用? と優美は最後に加える。
今日はまだ他の部員は来ていないようだ。
この場には、この三人だけ。
陸は道場を見渡し、有斗の顔、そして優美の顔を見る。
「用ですか? まあ、ちょっと可愛いから京子先輩を拉致りたいなあと思って……」
「あたしが許すと思ったか」
「オレが許すと思ったか」
駆け落ちと言い換えれば響きはロマン溢れる冒険。
日本で冒すとそれは犯すに変貌する。拉致は犯罪だ。
「犯罪予告とはいい度胸だなぁ? 時岡」
「うわわあ優美先輩弓持ってこないでください! 構えないで!」
逃げる陸と追う優美と有斗の図が出来上がった。
きっと弓道の神様が見たら怒るような図式。
散々脅しをかけ鎌をかけて気が済んだのか、優美は座りこんだ。
「さて、そろそろ練習始めようね」
「はい」
二人共、良い返事だった。
「あ、時岡は帰れ」
「酷い」
「あんたは弓道部じゃないでしょ!」
* * *
部活動を終えて帰る。今日も一人だ。
「京子に電話しようかなぁ」
長い影が二つあった頃を思い返しそうになってまた涙ぐみ。
携帯電話のメールボックスを何度も確認して、溜息を吐く。
どこからかカレーのいい匂いが流れてきた。
「皆勉強してるんだよねぇ……」
邪魔したら駄目だから。携帯電話は電源を切った。
家に帰ったら勉強、家に帰ったら勉強と何度も繰り返す。
多分夕食をとったらすぐ眠りについてしまうだろうけど。
こんなに疲れるぐらい部活動に注ぎ込んでも、東介を忘れられない自分がいる。
学校ですれ違っても、もう目は合わさない。メールも回さない。
友達でいよう、と最後に彼は言ったのに。
* * *
大会が近づくにつれ、有斗は集中力に欠けてきた。
曰く本番に弱いらしいが、練習は本番じゃないと優美が言っても無駄なところをみると単にプレッシャーに弱いだけか。
「光村。九連続外れだよ。体力もってないんじゃない?」
「すみません」
「大丈夫。来週まで時間あるから。頑張れ」
「……はい」
そしてまた外れる矢。
「落ち着いてやったらいいよ。焦らないで」
優美は一年生の頃の自分と重ねて見ているような気がした。
だから、本人も分かっているであろうことを言うのは心苦しい。
落ち着いてやったらいいよ。
それは東介が優美にかけた言葉でもあった。
まだ弓道部に入って間もない頃。弓道だけじゃない、委員会活動や教室において、彼は常に優美をフォローする側だった。
お節介焼きというわけではなかった。人が好いだけ。
しかしその人の好さに、何度助けられたことか。
「遠藤先輩。……先輩?」
「あぁ、ごめん。ぼーっとしちゃった」
「矢、当たりましたよ。先輩のおかげです」
「あたしのおかげじゃなくて、自分で当てたんでしょ」
多分東介ならこういう時、こう言うんだろうな。と優美は思った。
再び有斗は弓を構えた。
まるで水の中にいるような、不思議な空間が生まれる。
その静寂は突然破られた。
荒々しく開けられた扉の方を見やると、西日を背にした金髪。
「有斗! お前のお母さんがまた……っ」
「……え?」
「いいから早く来いよ!」
陸の叫び声が道場に響いた。
部員達も異変に気付いたようで、ざわついた空気になる。
「皆は練習続けてー! 光村は今すぐ行きなさい」
優美は手をぱんぱんと叩いて促した。
有斗は陸に連れられて、夕陽に消えた。
* * *
『明日クラブを休ませていただきます』
優美の携帯電話に届いたメールは有斗からのものだった。
彼の母親は疲労から来る病で倒れたそうだ。元々病弱な母なので気にしないでくださいと文末にあった。
「大丈夫らしいけど……何だかなぁ」
こういう時、どういう言葉をかけたらいいのかわからなかった。
授業で教わっただろうか。これだから勉強は嫌いだ。
大切な事は、何も教えてくれない。
そういう事を優美に一番優しく教えてくれたのは、東介だった。
あの笑顔に会いたい。
* * *
最後の大会は予選敗退に終わった。
有斗は一回だけ練習に訪れたものの、良い結果は残せず。
「優美先輩……ごめんなさい」
「謝んなくてもいいよ」
それでも半分八つ当たりのように。優美は続けた。
「光村。家のこと理由にしてちゃ、部活から逃げてるだけだからね。そんなんじゃ強くならないから」
「……先輩は部活を理由にして勉強から逃げているじゃないですか」
思いもしないカウンターが返ってきた。
有斗はしまったという顔で口を手で押さえる。
「……すみません」
「いいよ。……もう、あたし、引退だから」
「すみません」
「謝んないで」
有斗が謝る度に、自分が醜く感じた。
彼なりの優しさが身に突き刺さる。
* * *
勉強しているかもしれない。迷惑かもしれない。
それでも話を聞いてほしくて、優美は京子に電話をかけた。
「私で良ければ、何でも聞くわ」
「本当……いつもありがとう、京子」
まず大会の結果を伝えた。
有斗が部活動に全然参加できなかったのは、彼女も知っている。そして彼に八つ当たりしてしまったことを。
ひたすら京子に愚痴としてぶちまけた。
「光村は心配してくれていたんだ……あたしのこと。それなのにあたしは、光村のお母さん病気なのに、来ない方が悪いみたいな言い方しちゃって」
部活動にかまけて勉強していない自分を。
余計な心配はただの偽善かもしれない。
それでも、偽善の中に優しさはある。
「有斗君ってばお節介焼きさんなのね」
京子は電話の向こうで嬉しそうだった。
「私は部活に一生懸命な優美が好きよ。……きっと、佐々木君もそうだったんじゃないかしら」
「東介が?」
「彼が優しいのは、貴方にだけよ」
勉強でわからないことがあれば何でも教えてくれた。
委員会の雑務を一緒に居残って手伝ってくれた。
いつも最後まで優美の話を聞いてくれた。
別れる時は、さよならは言わなかった。
「どうせ大学に受かったらよりを戻すんでしょう?」
秋の最後の大会をやり切って、その後は勉強に打ちこんでくれたらいいだとか、そんな魂胆だったのだ。
彼は京子に全てを話していたらしい。
理系と文系ではいい加減教えられる範囲も変わってくる。友達でも勉強は一緒にできる。
ショックが大きすぎて、全然落ち着いてなかった。
一人よがりに恋をしていた。
十回連続で的を外した有斗よりも、ずっと当てずっぽう。
「全然優しくないよ……そんなのわかりにくいよ」
「さしずめ『宿題』ってあたりだったりしてね?」
「京子は優しすぎ」
「優しいのは私だけじゃないわ」
有斗も陸も。東介も。
手を差し伸べるだけが優しさじゃない。
心を傷つけないだけが優しさじゃない。
「貴方もね。優しくて、美しい。それが優美でしょう」
「あたしって優しいかな?」
京子は少し黙った。
この答えも、『宿題』ということなのだろうか。
「……優美。今夜は勉強したらどうかしら?」
「もう寝てもいい?」
「駄目よ」
最後に悪戯っぽく付け加える親友が憎い、でも大好きだ。
駄目元で東介にメールをしてから、優美は寝た。
* * *
桜が咲いたら、優しいあの人にもう一度。
「好きです」
って。
答え合わせをしに行こう。
間違っていたらどうしようかな。
赤ペンで書き直したら駄目かな。
スポンサードリンク