駅前にある大きなマンションは、私が物心ついた時から建築中だったような気がする。それがついに完成したらしい。
 父は、町に子どもが増えると言って喜んでいた。
「それって……誰かが転校してきたりするのかな?」
 ねえお母さん。
 遺影にそっと手を合わせた。
「香澄。学校遅刻するぞ」
「ちょ、待ってお兄ちゃん!」
「鍵持ったか? 忘れ物は無いか?」
「うん、大丈夫だ。お兄ちゃんこそ」
 声を揃えて。
「行ってきます」

 そして、木井ノ瀬団花は転入してきた。
 私が彼女と同じクラスになったのは、その翌年。

  * * *

 クラス替えで私が困ることはまずないっていうぐらい、私には友達が多く――そして、本音を話せるような友達は少ない。
「やった、今年池ちゃんと同じクラスだ」
「池ちゃんがいると運動会勝てるもんな!」
「今年もよろしくね、池ちゃん」
 新しいクラスメートからのありきたりの挨拶。
 そんな成り行きで、年度最初のホームルームの時間、私が学級委員長に決まる。まあこれも毎年のことだ。
 六年間委員長皆勤。
 私は、クラスのヒーロー、池ちゃんなのだ。
「じゃ、私が委員長ってことで! みんなまとめてついて来い!」
「さすが池ちゃん心強い!」
 ノってくれるギャラリーの存在が私にとっては心強い。
「男子はー? 立候補いないー? ないなら私が指名する」
 ざっと教室を、その時初めて見渡したような気がした。やっぱり六年生にもなると、知らない顔はほとんどない。担任の先生もほぼ私に任せきりだ。
 教室が一瞬静まり返る。一本の手が宙に伸びていた。
「……円玲、あんたでいいの?」
「いいよ、俺やる」
「はいじゃあ委員長決定! 拍手!」
 彼は『天才』の肩書きを持つ円玲。
 これから一年間やっていく相方として不足はなかった。
 そういえば彼と同じクラスになったのは初めてだった。

 休み時間になって、ようやく席に着く。
 私の隣の席は木井ノ瀬団花だった。
 小さくて、眼鏡をかけていて、今は本を読んでいた。いかにも大人しそうなタイプだ。つい守ってあげたくなるような雰囲気が漂っていた。去年転校して来たとは聞くが、誰かと親しげにしているところは見たことがない。友達は、いるのか。いるとして、誰なのか。
 私は、彼女と友達になれるだろうか。
 興味本位で話しかけた。
「ねえ。木井ノ瀬さん。下の名前、『まどか』って言うんだね。かわいい名前だね」
「そっ……そう、かな……ありがとう……」
 急で驚かせてしまったようだった。無理もないか。
 それでも本から顔をあげて答えてくれたのは嬉しい。
 視線を合わせて喋るのが苦手なのだろうか、少ししどろもどろしているが。
 彼女と仲良くなりたい――そうはっきりと思った。
 思い立ったら即行動が私のモットーだ。多少強引なのが売りの。
「良かったらなんだけど、『木井ちゃん』って呼んでもいい?」
「えっ。あ、うん……良いよ」
 私はガッツポーズを取りたい衝動を押さえつけ、あくまでも冷静に、フレンドリーに会話を続ける。
「木井ちゃん、これからよろしく」
「うん、うん……よろしく。池さん」
「香澄でいい」
「じゃあ……香澄ちゃん」
 彼女はにこりと微笑んだ。
 良かった。うっとうしがられていないみたいだ。

 それから私は木井ちゃんといることが多くなった。
 クラスには、前の学年から仲の良かった子もいた。その子も新しいクラスで新しい交流関係を広げている。
 木井ちゃんに話しかける子はいなかった。私だけだった。
 なんだか放っておけなくて、席替えしてからも、毎日一緒に遊んだ。
 彼女はやっぱり見た目どおり大人しくて、少し引っ込み思案なところがあって、外で遊ぶよりも室内で遊ぶほうが好きなようだった。男子と殴り合いの喧嘩をする私とは大違いだ。
 私がその話をすると、
「香澄ちゃんって……男子殴ったことあるの……?」
「ま、喧嘩の内にだけどね。なんかつい手が出ちゃうんだよな」
 木井ちゃんは私の右手を優しく撫でた。
「……その時……痛くなかった?」
「全然平気。だってあいつら、私には勝てないから」
「一方的に殴ったら駄目だよ……」
 そう言いながらも痛いの痛いのとんでいけのおまじないをしてくれた。
 最後に喧嘩をしたのは随分前だけど、撫でられたところが妙にくすぐったくて、あったかくなった。
「……あんまり、喧嘩しないでね」
「はーい」
 人に指図されるのは嫌いだ。
 でも木井ちゃんが控えめに言うと、なんだか意地を張るのもバカみたいになる。

  * * *

 それは雨の日だった。
「みんなー、今日の体育は体育館だから! 体育館シューズちゃんと持っていってねー!」
 教室を見回して、それから男子を追い出す。
 私は素早く体操服に着替えた。シューズを確認し、木井ちゃんのほうに目を向ける。
 彼女は着替えもせず棒立ちだった。眉を下げて困ったような顔をしていた。
「木井ちゃん?」
「……ごめんなさい……先に行ってて」
「なんで。どうしたの?」
「何でもない……大丈夫、後から行くから……」
 消え入りそうな彼女の声は、なんでもないようには思えなくて。
 私は彼女を頭からつま先まで見る。なにか足りないような気がした。
 外は雨がわりと強く降っていて、ざあざあという音がする。
「もしかして、木井ちゃん、体育館シューズ無いの……?」
「……っ、朝はあったんだけど……ちゃんと、机にかけてたのに……なくなってて……!」
「ちょっと待ってて!」
 私は教室を飛び出し、職員室横にある『落とし物ボックス』を見に走った。赤白帽や眼鏡ケース、鉛筆や三角定規等がたくさん並べられている、その箱の中に体育館シューズは無かった。
 意気消沈して教室に戻る。
 もう女子は全員体育館に行ってしまったのだろう、木井ちゃん一人だけがまだ残っていた。お互い顔を見合わせて、ため息をつく。
「今日は私のを貸してあげる」
「え……?」
「いいから。私、先生に言うし」
 木井ちゃんに自分のシューズをぎゅっと押し付けた。
「体育が終わったら、一緒に探そうよ」
「……うん……ありがとう」

 その体育が終わった後のことだ、
「木井ノ瀬さん! 本っ当にごめんなさい!」
「……いいの、私が言いに行くから……」
 木井ちゃんの体育館シューズは、とある女子が間違えて持って行っていたらしく、気づかずにまた別の女子に貸してしまったらしい。
「……木井ちゃん、大丈夫?」
「うん、大丈夫、大丈夫……」
 そう言いながらも、とぼとぼと隣の教室に向かう様子は痛々しい。
「私もついて行くよ」
「ほんと、大丈夫だから……」
 取り残された私は、どこか寂しい思いをした。
 木井ちゃんのそばにいてあげるべきだと思うのに、心臓がばくばくと音を立てる。

「木井ノ瀬に置いていかれて、寂しいって顔をしている」
 後ろから声をかけられて振り向く。
 思ったとおりだった――円玲がそこにいた。
「なんで、私の後ろからなのに顔がわかる?」
「誰でも分かるよ。池が俺のことを『円玲』と呼ぶみたいに」
 私は円玲のことをフルネームで呼んでいる。初対面の前からずっと。円玲は有名人だった。
 木井ちゃんのことを下の名前で呼ばなかったのも、「円と木井ノ瀬が結婚したら『まどか・まどか』になる」なんてからかうバカがいるから。
「……で、なんか用? 円玲」
「木井ノ瀬の体育館シューズはそこには無いよと言おうとしたけど、考えてみたら、俺は木井ノ瀬と喋ったことが無いんだよね」
「ごめんもっとわかりやすく説明をお願いする」
「池から木井ノ瀬に伝えてあげて。中庭にあるって」

 私は木井ちゃんに言いに行くよりも先に、中庭へ走った。
 雨の下、水たまりの中に、泥だらけのそれは落ちていた。

 一生懸命洗ったがうまく汚れは落ちず、ずぶぬれのシューズを窓際に置いて干す。湿気がすごく高いから、多分今日中には乾かない。
「……ありがとう香澄ちゃん……探してくれて……」
 木井ちゃんはシューズから目を離さずにそう言った。
 私は女子達が木井ちゃんを騙したことが許せなくて、ついさっき直接言いに行ったら、はぐらかされたところだった。
「ええー? 池ちゃんの勘違いじゃないかなー? 私、知らないもん」
 ――なんて返ってきた言葉も顔も、思い出すのも腹ただしい。
「……ねえ! 木井ちゃんは悔しくないの?」
「え……? 何が?」
「私、絶対許せないよ……!」
「……香澄ちゃん……」

 前に私が男子集団と喧嘩したのは、クラスで男子と女子が真っ二つに分かれたからだ。
 もう男女混合で授業を受けるなんて信じられないという思想が当時は流行って、先生も手を焼くばかりだった。
 私は女子に泣きつかれて、委員長として、男子に挑んだ。
 最初は話し合えばなんとかなる――と思っていた。
 しかしあいつら、話せば話すほどむかついてくる。
「池ちゃんは委員長だからそんなこと言ってるけど、本当は女子の味方なんだろ?」
「女子ん中でも池ちゃんだけはこっちに来てくれるよな?」
 どっちだよ。
 私はクラスみんなで仲良くしたかったのに、どうしてこうなったのかわからない。
 手始めに私のことを『おとこおんな』と言った奴から、殴った。
 後で先生に思いっきり怒られた。

 はっと気がつけば、私の右腕を木井ちゃんが、左腕を円玲が押さえていた。
「……人を殴っちゃいけないよ……香澄ちゃん」
「何しようとしてるんだ? 池香澄」
「え、私ごめん、考え事してて、今なにしようとして……?」
 目の前には例の女子が、見るからに怯えた顔の女子がいて。
 周りには男子が私を取り囲むようにしていて。
 私は木井ちゃんと円玲の二人にそのまま腕を引かれ、教室から出た。
 おとこおんな、凶暴。そんなざわめきが私の背中を暗い所に押し出す。

「馬鹿!」
 終わりの会が始まるチャイムと重なるように、円玲の声が渡り廊下に響く。
「バカってなに、バカって! バカにしないで!」
 勢いで言い返したものの、こっちをまっすぐに睨む彼の気迫に圧される。
「木井ノ瀬が止めなかったら、池はあいつらを殴っていた」
「ごめんね……ごめんね……っ」
 木井ちゃんは後ろで頭を下げていた。
 彼女のこんな顔、見たくなかったのに。
 私は、誰にも悲しい顔させたくなかったのに。
「……私は、木井ちゃんの、味方になりたかっただけのに!」

  ・ ・ ・

 去年転校して来た木井ノ瀬団花。誰かと親しくしているところは見たことがなかった。
 大人しい彼女が陰でからかわれていることは、本当は知っていた。

 学級崩壊が起こった私のクラス。
「男女混合で授業を受けるなんて信じられない」
 私はそれを「間違っている」と言った。
「男子とか女子とか関係無い。折角同じクラスになったんだから、仲良くしよう。もし、今が楽しくなくても、きっと一緒にいれば楽しくなる。私は、男子も女子も、みんなの味方だ」
 先生に人を殴ったことは怒られたけど、その勇気は褒められた。
 私はクラスで『ヒーロー』になった。

  ・ ・ ・

「池は、今のクラスで何て呼ばれてるか、知ってる?」
 円玲はなぜかポケットから立方体パズルを出し、それを回しながら、私に訊いた。
「……『池ちゃん』?」
「それはあだ名」
「じゃあなに」
 かしゃかしゃと小気味いい音を立てて、次々と色が揃っていく。
 赤が揃って――黄色が揃って――青が揃って――白が揃って。
 そこで手は止まった。
「言い方きつかったらごめん」
「わかった。できるだけ短くお願いする」
「……池は『正義のヒーロー』にでもなりたかったのかもしれないけど、残念ながらそれになり損なってしまっただけだ」
「つまり?」
「『偽善者』」
 相変わらず円玲は難しい言葉を使って回りくどく説明する。私が頭悪いのは自分でもよくわかっているつもりだし、彼もよくわかっている。彼がわかっていてやっているのもわかっている。
 ギゼンシャ――察するに、よくない言葉、と判断。
「木井ノ瀬は偽善者の意味わかるよな?」
「……う、うん……一応……」
「ならいい」
 と円玲は立方体パズルを私に手渡した。
 四面だけ揃った、あとは緑と黒のモザイクだけの。
「池。次の質問」
「できるだけわかりやすくお願いする」
「俺がどうして『天才』という肩書きを持ってるか、知ってる?」
 手渡されたこの立方体パズルがヒントなのだろうか。
 私はこれを六方向から見てみた。
「あっ、パズルが得意だから!」
「惜しい」
 円玲は再び立方体パズルを手に取る。
 かしゃかしゃと回し、――今度は赤と青と白と黒を揃えた。
「『天才』という『キャラ』を演じたからだよ」
「……わかりやすく」
「平面パズル。立体パズル。勉強。なぞなぞ。お悩み相談。クラスの抱える問題。それらを瞬間的に解くことによって、俺は『天才』という立ち位置を築いた」
 それを天性の才能だと思い込み、人は彼を『天才』と呼ぶようになる。
 しかし実のところは、努力して、『天才』の肩書きを得た、と。
 私は、努力を継続できる人こそ天才だと思うので、
「それって天才と変わらない気がする」
「うん、だから俺はそう呼ばれていることに不満はないんだって。……言葉の定義は実際人それぞれだから。池がそう思うなら、そうでいいと思う。でもここは学校だよ。マジョリティーの世界なんだ――あ、マジョリティーっていうのは多数派っていう意味。多数派はわかる? 多数決ってするよね、あれの人数の多い方」
「多数派ぐらいわかるよ! さっきからバカにしないでって言ってるのに!」
「うん、ごめん」
 円玲は素直に謝った。
 彼の手の中にある立方体パズルは、今、赤と青と白と緑が揃っている。
「俺は案外面倒くさがりやなんだ。だから、これも四面揃えただけで放置しちゃうし」
 黄色と黒はまばらだった。まるではみ出てしまった絵の具。
「本当は『天才』なんかじゃない。――俺はただの、円玲だから」
 そう言い終えるとすぐに、綺麗に六面揃えた。
「……あの……円君……」
「何? 木井ノ瀬」
「……私も……『大人しいキャラ』を演じているのかな……」
「少なくとも木井ノ瀬はいじめられるのを望んでいないだろ?」
 木井ちゃんが自ら男子に話しかけるなんて。という私に感動を与える隙も無く、円玲はさらりと言う。
「俺も本当はあいつらぶん殴りたかったんだけど。木井ノ瀬は?」
「……やっぱり……暴力は良くないよ」
 木井ちゃんは変わらず大人しいのだった。
「……でも、私も、香澄ちゃんと同じ……みんなに好かれたいの。……ううん、みんなじゃなくてもいい。香澄ちゃんや、円君のように……私のことをわかってくれようとする人に、好かれたいの」
「それは俺もみんなも同じだ。……なぁ、池……」
 円玲は立方体パズルをポケットにしまった。

 ああ。
 そうか。
 私はみんなを好きなのではなくて。
 みんなに私を好きになってほしかっただけだったんだ。

「終わりの会、終わっちゃうな? 委員長」
「あ」
 私は二人の腕を引いて走った。

  * * *

 朝起きて、出かける前にお母さんに手を合わせる。
「ねえ。お兄ちゃんはキャラとか演じてる?」
「……は? 知らん。もう行くぞ」
「あっ、待って!」

 金髪で柄の悪そうな高校生を見れば『不良』かと思う。信号で本を読んでいる中学生を見れば『図書委員』かと思う。友達に「なんでやねん」とツッコミを入れている人を見れば『大阪の人』かと思う。
 でも、もしかしたらそれらは全部演じているだけかもしれない。

 きっとお兄ちゃんは『影の薄い』キャラだね。
 そう後ろから言ったら、どんな顔をするだろう。
 『天才』ならなにかわかるのかもしれないけど、私は『ヒーロー』だから、その担当ではない。

「行ってきます!」
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