「逃げたぞ! そっちだ、早く追え!」
 物騒な怒鳴り声が響く路地裏。どたどたという地響きに近い、忙しい足音。道の端で寝ていた三毛猫が驚いて飛びのいた。
 先頭を走っているのは、一人の少女。その後ろを、赤い鎧で身を固め、重そうな槍を持った二、三人の男が追っている。
 少女は、長い金髪から、美しい紋様の入っている服、膝丈まであるブーツの先まで薄汚れていた。背中には見た目にそぐわない大きな弓と矢立。やがてそれを降ろし、腕で抱え込んで走る。
 しかし、やはり大人には敵わないのか、徐々にその距離差は縮まっていった。
 路地裏にいた大人達はそれを見て囁き合う。「可哀相だねぇ」と。
 少女が石畳の段差に躓いて転んだ。すぐ立ち上がろうとするも、焦ってバランスが上手く取れず、立ち上がれない。追っ手が好機とばかりに迫る。
 その時だった。
「――ったあッ!」
 すぐ近くにある家の屋根の上から少年が一人、飛び降りてきた。
 まるで少女を庇うように。
 ぼさぼさの茶髪が特徴的な少年は、持っていた細身の剣をぶんぶんと豪快に振り回して男達を威嚇する。
「おい、なにしてんだよ!」
「そ、それをこちらに引き渡しなさい! さもないと、貴様が怪我をすることになるぞ!」
「ふーん。そんなやせっぽちの槍で? おれを倒せるの?」
 少年はにこりと笑って、男達に背を向け、少女を見た。
「おまえ、追われてるんだろ? こっちに来いよ!」
 少女が頷くよりも先に、少年は彼女の腕を引いて走りだした。


 少年は走るのが速かった。途中から少女を抱き上げて走った。追っ手は、細く入り組んだ路地で諦めたようだ。
 しかし、少年は念入りに道を選ぶ。
 ようやく足を止めた場所は、小さなあばら家だった。
「ふぅ、危なかったな……あ、大丈夫か?」
 少女の足が震えている。
 少年はまず少女を椅子に座らせ、毛布を背中にかけてやる。そして先ほどと同じ笑顔を彼女に向けた。
「おれ、えいじ。おまえは?」
「……大天宮の、しおん」
 少年――えいじが訊いてみると、少女は細い声で大天宮しおんと名乗る。
「おーあまみや? ってなんだ?」
「……知らないのなら別に構わない」
 しおんは毛布をえいじに返した。そして、
「えいじ。あなたに頼みたいことがある。……私を、助けて」
 と、先より幾分かは通る声で、そう言った。


「……なーんだか、おれにはよくわかんないな……」
 しおんの話を聞き終えた後、えいじは呟く。
 彼女には年の離れた兄がいて、その兄が国家謀反の罪で捕らわれたので、助けに行きたい――と。
 家は既に燃え、一緒に暮らしていた侍女たちともばらばらになってしまった。今のしおんは、独りぼっちだ。
 話の内容はそういうことだった。
「兄さまがそのようなことをするはずない。つまり濡れ衣だ……でも、私も、罪人の妹として追われているみたいで」
 外はいつの間にか日が沈み、暗くなっていた。
「じゃあ、さっきのあいつらは国軍ってことか?」
「そうだと思う」
 国軍――公的軍隊及び政治機関のことだ。
 行政所・司法所・外務所・防衛所等様々な所がある。先程の兵士達は恐らく警検所あたりの所属のはず   と。
 えいじは舌打ちをしたが、しおんは聞いていない振りをした。
 冷えてきたので、再び毛布がしおんの手へと渡る。けして上質とは言えない薄さではあるが、寒さを凌ぐには充分だろう。
「……よく調べていないからわからないが、執行までまだ猶予期間はあるはずだ。それまでに、兄さまに会いに行きたい――いや、会いに行く」
「それでこの町まで来たってわけか」
 この国に一つだけある収容所が、この町のはずれにある。そこに兄がいるはずだとしおんは踏んでいるのだった。
「突然でごめんなさい。でも、私は、どうしても……」
「いいよ」
 あまりにもあっけらかんとしたえいじの返事に、しおんは目を見開いた。心の奥底では期待していなかったということだろうか。
「……本当に良いの……?」
「なに言ってんだ。困ってる人を助けるのは、当たり前だろ?」
 えいじがとても無邪気に笑ったので、しおんもようやく安心したように笑った。


 明朝。
 静かな裏路地にある家から、二つの声がよく響いてくる。
「荷物、まとめ終わったぞー。……なにしてるんだ?」
「今行く」
 えいじはあばら家の玄関でしおんを待っていた。
 荷物をまとめたと言っても、彼の場合は剣さえあれば良いらしい。
 お粗末な皮袋が申し訳程度に腰のベルトからぶら下がっていた。
「待たせてすまない」
 およそ四分の一時経った頃、ようやくしおんが出てきた。
 寒いのか、毛布で身を包んでいる。その上から、大きな弓と矢立を背負っていた。なんとも動きにくそうな格好である。
「すげー荷物。昨日もずっと大事そうに持っていたよな?」
「この弓は兄さまのものだ」
 それ故に、彼女の身丈に合わなかったのだろう。
 言われてみてえいじは何となくしおんの兄の容姿を想像してみる。どんな人なのか、そういえばまだ聞いていないことを思いだした。
「しおんの兄さんってどんな人?」
「それは見た目ということか? 背はけっこう高いな……優しそうな顔立ちで、私と同じ髪の色だ」
「ふぅん。……あれ、髪」
「あぁ、これは」
 えいじに訊かれ、しおんは、指摘された金色の髪を摘み上げて、
「昨日、切られた――いや、自分で切った」
 と言った。気付いてなかったのか? と顔に出ている。
 彼女の長い髪は、片側だけが不自然に短かった。
「あいつらに掴まれて……。逃げるため、これで切ったのだ」
 しおんは右の袖口から、ぱっと小さなナイフを出した。護身用の、女性でも操れる軽いものだ。えいじが見たのを確認して、すぐにしまう。
「……きれいな髪なのに、もったいねぇな」
「そう?」
 えいじがしおんの髪にそっと触れた。自分のぼさぼさの髪とは違って、さらりと流れるように指の間をすり抜ける。
「……えいじ、早く行こう」
「あぁ、そうだな」
 そして二人は歩きだした。


「そういえば」
 路地裏を出て、朝の活気に包まれた市場を抜け、誰もいない坂道を上ったあたりで、それまで黙っていたえいじが口を開く。
「なんでそんな大事なこと、おれに教えてくれたんだ?」
 そんな大事なこと――えいじがそれを訊くにはいささか遅すぎるような気もしたが。
 しおんはしれっとした顔をして、答えた。
「昨日えいじは私を助けてくれた」
「あぁ、まぁな」
「強い、と思った。それから、お人好しなことも。それだけだ」
 あとは勘もあったかもしれない――と最後に彼女は付け加える。
 そこで二人のお喋りは止まった。
 眼前に赤い鎧を身につけた男が立っているのを見たから。
 手に持った重そうな槍。恐らくしおんを追っている国軍の一兵士に違いない。
「見つけたぜ……。よくここまで逃げたなァ、お嬢サマ?」
 ざっざっという足音がだんだんと近づいてくる様子に、えいじとしおんは後ずさりする。
「やれやれ、全く手間をかけさせるぜ。大人しくこっちに来ないか? そうすれば、そっちのガキも見逃してやろう」
 低い声でハハハと笑った。
 その背後から、更に二人の男が出て来て、えいじ達の前を壁のように塞ぐ。
 相手の狙いはやはり、他ならぬしおんだ。
「しおん、下がれ」
「……でも、えいじが危ないのでは」
「いいから」
 かちゃり、という音。えいじが剣を鞘から抜き、臨戦体制を取ったのだ。それに反応して、男達も槍を構える。
「貴様、昨日のガキか……! 騎士でも気取ってんのかよ!」
 一人がそう叫んだのを合図にするかのようにして、えいじは男達に向かって駆けだした。
 子供対大人。一人対三人。素人対国軍。これでは確実にこちらが不利だということを、しおんはわかっている。
 前を見るとえいじに槍が向けられていた。
 思わず目を瞑って叫ぶ。
「えいじー!」
 予想していたような金属音はしなかった。
 代わりに、
「なっ……、あ、あ――!」
 ぐらりと倒れる鎧の男。あとの二人は一瞬たじろいだが、すぐにえいじの動きに対応する。剣と槍がかち合う音が鳴り響いた。
 しおんは目を開ける。
 そうだ。まさかえいじを置いて自分だけ逃げるわけにはいかないのだ。
 それなら自分もと、しおんが意を決してナイフを右手に持った瞬間。
「きゃ……っ――」
 相手の一人に、後ろから右腕を捻り上げられ、左手で口を押さえられた。
 からん、とナイフの落ちる音がする。
「随分と強い護衛を手に入れたようだが、そっちが気になって仕方ないような顔してたぜ。油断したようだな?」
「……んん……っ」
「ハッ。暴れたって所詮貴様の力じゃ無理だ、無理!」
 ハハハという、男の勝ち誇ったような笑い声が、途中で切れた。
 ずしり。しおんに重い振動が伝わる。視界が揺れる。
「……おっさん。しおんを放せよ」
 後ろからえいじが鎧と兜の隙間を縫って男の首を剣で刺していた。
「ぐ、あ――そんな、馬鹿……な……ァ」
 しおんを拘束していた腕の力が緩み、ずるずると男は崩れていった。
 解放されたしおんは、すぐに後ろを見る。
 真っ赤だった。
 えいじの服も、倒れた男の鎧も、しおんの足元も。血で赤く濡れて、染まっていた。
 男に突き刺さったままだった剣を抜いたえいじは、更に剣を一振りして血を払った。
 そしてそれ以降男を見ることもなくて。
「しおん。終わったよ」
 えいじは立ちすくんだしおんに、あまり汚れていないほうの手を差し伸べた。
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