差し出された手を、しおんは払った。
 えいじが驚いた顔をしたのを見て、はっとなり、ごめんなさいと小さく呟く。
「……しおん? どうかしたか?」
 早くここから離れないと、また国軍が追ってくるだろう。それはしおんにも、えいじにもわかっていたことだった。
 しかし、しおんはまだ動かない。代わりに、
「……どうして……」
 消え入りそうな声でえいじに投げかけられた疑問。
「どうしてって。……あぁ」
 えいじは足元に横たわる国軍の兵士達を見た。己の血を流し切った首、ばらばらに破壊された鎧から見える肉の断片、骨が折れたのか不自然に折れ曲がった足。
 えいじがその剣をもって傷つけた。
 既に彼らの息はないだろう。
「何も……何も、殺すことはなかったのではないか?」
「……しおん」
「殺さなくてもよかったのに……!」
 しおんの目からは、涙が零れていた。
「……でもあいつらは、しおんを殺そうとしてたんだぞ」
 血に染まった服を一枚脱いで放り投げながら、えいじは淡々と言った。
「っ……」
「泣くなよ、しおん。兄さんに会いに行くんだろ?」
 えいじは力強くしおんの細腕を掴んで歩きだす。
 坂道に、三つの死体だけが取り残されていた。


「もう気づいてると思うけど、おれ、いわゆる孤児でさ」
「……うん」
 朝の人ごみに紛れ、えいじとしおんは収容所へ向かう。
 傍目からみれば家出にも見える二人を眺めるのは露店の売り子達で、多くの人は無関心だ。
「昔も今も、路地裏は治安が悪いんだ。物心ついた頃にはもう剣を握ってた。誰かが育ててくれたことは覚えてるけど、もうその人の顔も名前も忘れて……」
 しおんは、喧騒にかき消されそうなえいじの声を必死に耳で探し求めた。
 この少年は、どうして私にここまでしてくれるのだろう。
 困った人を助けるのは当然、とえいじは言っていた。
 その路地裏には、何かしら問題を抱えている人が沢山いたはずだ。困っているのでは、ないのか。彼らのことは助けないのか。しおんにはわからない。
「『生きろ』って言ってくれたことは覚えてる。『えいじ』って呼んでくれたのもその人だ。教えてくれた剣技は、今でもおれの体に染み付いてる」
 えいじは前を見ていた。はぐれないよう、しっかりとしおんの手を引いていく。
「ある日その人はもういなくて、おれは一人になった。そこから大変だったな。とにかく生きなきゃと思うばかりだった。人から物奪って飢えと寒さをしのいで……。色んな路地裏を転々とした。この辺りの道はみんな知ってるぜ」
 時折しおんが躓きそうになると、その都度えいじは歩く速度を落とした。
「きれいごとだって思うかもしれないけど、いつかさ、生きてて良かったって思えることがあるよ、しおん。な?」
 やがて二人は、再び路地裏へと入っていく。
 建物で影になった暗い道に、しおんは身を強張らせたが、えいじが大丈夫と小さく囁く。
「おれは、しおんのことは好きだよ。でも、しおんのためには死ねない。ここまで生きてきたのは、自分が生きるためだ」
 えいじは前を向いて歩いている。彼はいつも前を見ていて、きっとそこで報われるはずだと信じて生きてきたのだと、しおんは背中を見て思った。
「さっき、なんで殺したかって、訊いたよな。おれはしおんのためには死ねないけど   しおんがおれの目の前で殺されるのは嫌だ。だから、さっきの奴らを殺したんだ」
 しおんは何も言えなかった。
 自分の知らないものを持っているえいじを見ていた。
「……さてと。長い独り言は、これで終わり!」
 そう言うと、ふいにえいじはしおんの方を振り向いた。
 すっきりしたような笑顔に、思わずしおんの顔も和らぐ。
「もう少しで着くぜ」


 間違いなくそこは目的地だった。高い塀の周りは常に監査が巡回していて、とても子供が入り込む隙などない。
 二人は、とりあえず人目につかなさそうな建物の角に移動した。小さな段差に腰掛ける。
「おれが、あいつらを」
「それは駄目だ」
 えいじが皆まで言い終わる前に、しおんが止めた。
「やっぱり、人を殺すのは駄目だ」
「……しおんは優しいな」
「えいじに出会うまでは、それが普通だと思っていたし、今でもそう思っている」
「結局変わってないじゃないか」
「……確かに、えいじは『仕方ない』ではとても片付けられないようなことをしてしまったかもしれない。でもそれは私にも非がある。えいじに頼んだのは他でもない、私だから……」
 誰にも気づかれないように、しおんはひっそりと話す。
「さっきのえいじの言葉を借りると……もう気づいているかもしれないが、私は、『大天宮』という小さな貴族の娘だ。両親は、私が幼い頃に事故で死んでいる」
 その頃を思い出しているのか、しおんはしばらくぼんやりと空を見上げた。えいじも同じようにして空を見上げる。既に太陽は高く昇った真昼の空。
「兄さまは国の役所に勤務していた。確か、軍師見習いだと……。六人の給仕と私を養うのは、今思えば厳しかったはずだ」
 薄く引き伸ばされたような雲が、建物と建物の隙間の空から覗く。
「忙しいはずなのに、兄さまはいつも私に優しくしてくれた。必ず私と朝食をとり、夜には子守唄を歌ってくれ、休みの日には弓を楽しんだりして……すまない、えいじからすれば贅沢な話だな」
「ううん、別に気になんないし」
「……ありがとう。今まで、本当に」
 すくっとしおんが立ち上がり、えいじにそう言った。ついで、えいじも立ち上がる。
「一人で行く、なんて言うなよ」
「うん、わかっている。……えいじ、良いのか?」
「んなもん、初めて会ったときから、答えは決まってる」


 二人は、正門の方にまわって面会を申し込んでみることにした。
 その方が安全性も高いし、しおんの兄がここにいるという確認もとれると判断したからだ。
「……あの、失礼します。ここに大天宮都音という人はいますか? 面会したいのですが」
 とおん? とえいじが後ろから小声でしおんに訊ねると、兄の名前だと返してきた。
 見張りらしいその男は首を横に振り、
「駄目だよ、子供がこんなところに来ちゃあ……。面会だって? そんなの聞いたこともないね。帰った、帰った」
「……そうですか……」
 しおんは今にも行動を起こしそうなえいじを手振りで止め、正門前から素早く去った。後からえいじも追う。
 再び、先程まで身を潜めていた路地裏に入り込んだ。
「……しおん! どうしてなにも言わなかったんだよ? あんなの大人のへ理屈だぜ?」
「しかし、ああ言われては反論のしようが……ない。すぐには考えられなかった」
「なくっても! ……おれは馬鹿だからよくわかんねーけど」
 えいじはそう言うなり、しおんの体を両手で抱え上げた。
「どうしても兄さんを助けるんだろ? それに、しおんの話聞いてたら、おれも会ってみたくなったからさ」
「えいじ……」
「こうなったら強行突破だな」
 他にも方法はあるだろうに、としおんは思いつつも、やはり兄との再会を願う気持ちが勝ち、えいじに身を委ねた。


 えいじは持ち前のすばしっこさと体力を生かして、本当にそのまま収容所内へと侵入した。
 その手口は――正門より反対側に、防風林だろうか、大きな木が何本も植わっていた、その木を登り伝って、塀を乗り越える。それもしおんを抱えたまま   だ。
 着地のタイミングに合わせて、茂みに転がって受身をとり、しおんの安全を確かめる。
 どうやら運動場のような広々した場所に出たようだ。
「けがしてないか?」
「……あ、うん」
 しおんは呆然としていた。まさか本当に実行するとは。そしてそれがいとも簡単に成功していくとは。
 人の家に勝手に入ってはいけません等、所謂一般常識を持ち合わせている彼女には、えいじの行動が全て破天荒に見えた。
「これからどうするかなー。しおん、なにか考えてた?」
「えっ、あ……いや、特には」
「じゃあこのまま突っ走る?」
「それではすぐに見つかるだろう……」
 特に後先深く考えず行動する二人組だった。


 結局見張りの目から逃げつつ、しおんの兄を探すことに決めた。塀に沿って歩いて行く。
 ところがその途中、運動場が騒がしくなった。
「しおん……あれ、なんだ?」
 二人の武装した男に、何十人とも見える人々が続いている。みな同じようなみずぼらしい服を着ていて、その表情は暗く重い。
「……恐らく運動、だろう。一日中牢の中にいるようでは、懲役や徴兵がかかった時にすぐには働けないだろうから」
「ふーん……大変そうだな」
 整然と行進している、その中に、金髪の若い男がいるのをしおんはしっかりと見つける。
「……っ! 兄さんむぐ」
「静かにしろって、見つかったらまずいんじゃなかったのか?」
 つい大きな声が出そうになったしおんの口をえいじが押さえた。
 しかしすぐに解放し、えいじはしおんの言葉を待つ。
「どうするんだ?」
「……兄さまが目の前にいるのだ。今が好機であることには違いない」
 しおんは、いてもたってもいられないような顔をしていた。
 えいじはわかったように了解、と短く言う。
「策はあるのか?」
「……あいにく。えいじは?」
「おれの考えてることなんて、わかるだろ」
 お互いに顔を合わせ苦笑してから、えいじは剣を構えた。
「多分、あの武装してる男二人以外はみな囚人だろう。彼らは攻撃するな。できるだけ殺すな。それから、無理も禁止だ。絶対、自分の命を優先して。私よりも」
「難しいけど、わかった。あのきれいな金髪してるのが兄さんで合ってる?」
「そうだ。……私は何もできないから……後ろで、待っていることしかできないけど」
 頼んだぞ。しおんがそう言ったのを合図にして、えいじは一気に集団めがけて駆けだした。
 突然木陰から現れた少年に、人々は戸惑う。
 それでも兵士達は冷静に対処しようと、持っていた長槍を構えた。しかしえいじの素早い動きには間に合わない。
「はあ!」
「……ぐ、ぁあ……!」
 槍が薙ぎ払われるよりも速く、えいじは男の脇腹に深く剣を突き刺した。そしてすぐに抜き、振り向きざまに、やってきたもう一人の兵士の胸も切り付ける。
「……なーんだ、もう終わりか……」
 立ち上がることなく、その体から赤い血を流し続ける兵士をちらっと見てえいじは呟いた。なんて呆気ないのだろう。
 悲鳴とも歓声ともつかない声が、群集の間からわいた。
 その場に立ち尽くす人、逃げる人。そんな人々に紛れてしおんはえいじに駆け寄り、叫ぶ。
「えいじ、早く! 建物から、人が来ている!」
「あっ、そうか」
 その声でえいじはぐるりと周りを見渡した。金髪の男は困惑したような顔をして、やはり立ちすくんでいるようだ。
「おい、しおんの兄さん!」
「兄さま!」
 二人は同時に走った。
 やはりその男はしおんの兄、都音だったらしい。
 えいじはともかくとして、しおんに気付くと、彼女によく似た笑みを   こんな状況でさえ、浮かべた。
「しおん……如何してこんな所に?」
「どうしてでも何でもない、兄さま、早くしないと……!」
 どうも状況が未だによくわかっていないらしく、悠長にしている都音をしおんとえいじは腕を引っ張り、来た道を辿る。
 えいじは、自分より長身である都音を軽々と担ぎ上げて塀を登らせ、続いてしおん、最後に自分が登った。
「おれがまず飛び降りるから、順番に飛んでくれ」
 しおんがすぐさま頷く。
「兄さま、大丈夫。彼は信頼できる」
「そうか。ならお任せしよう」
 えいじは高さをものともせず飛び降り、やはり地面を転がって受身をとる。体制が整うとすぐに、しおんを呼んだ。
 ごくりと唾を飲み込み、震える足を叩いて、しおんは塀から飛び降りる。
 都音も、えいじの体制が整い次第飛び降りた。
「……すぐにここから離れよう、えいじ、兄さま」
「おう!」


 翌日、それは予想外にも大きな騒ぎとなっていたらしい。
 あの時脱獄したのは都音だけではなく、騒ぎに乗じた囚人が他にも幾人かいたそうだ。
 国軍の兵士達は、今日も血眼になって路地裏を走り回っている。


 彼らの行方は、誰も知らない。
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